LOST EPISODE


File  No.1  DEDICATE  TO  FRANK’S  MEMORY (1)

    第1回はあの世にツアーに出られたザッパ氏に捧げられた言葉の数々を
    お届けします。ザッパの亡くなったった94年暮れから95年の早春にかけて、
    海外ではザッパの特集号がかなり出ま した。その記事の中から 毎回セレ
    クトしてお送りします。
    なお、翻訳は私の貧弱な 英語力による ものですので、誤りもあるかもしれま
    せんが何とぞご了承の程を。
 


 注:このベージはGRAND WAZOOOの「BLESEED RELIF」を聴きながら
お読み頂くと効果があります。
 
WARREN   CUCCURULO

*1979年から1980年に在籍。元ザッパの追いかけだった。
   ザッパスクール卒業生の中での人気は今一つ。ミッシング・パーソンズはいいとして デュラン・
   デュランへの参加がイメージを悪くしているのかも。
   本人は「サンクス・フランク」というインスト・アルバムを出してギタリストとしての存在を主張しよう
   としているが、ヴァイやマイク・ケネリーと比べるとイマイチ地味な存在で損しているなと思う。
   しかし、WOWWOWで95年に放映されたギブソン20周年コンサートでの「トランシルバニア・ブギー」  の完コピのパフォーンスにはしびれた。

ザッパバンドが俺の唯一の音楽業界における学校だった。
ザッパが俺が20才の頃、78年の暮れに「俺のバンドで一緒にやらないか。」といった時は正直信じられなかったね。バンドに入ってからは、よくフランクの曲の難しいパートやフランクのソロを演奏した。「ダーティー・ラブ」や「アンディー」のようなね。
フランクはよく、挑発的かつ技巧的なギタリスト達の様に弾く事を要求した。
「よし、今からカルロス・サンタナ風に」てな具合さ。ティンゼルタウンの暴動を聴いてみて欲しい。ピーチスエンレガリアの最後に「それではもう一人の偉大なイタリアのギタリストアル・ディメオラを紹介します。」ってフランクがいって俺がそれ風
のソロを弾いているだろう?

彼は全くユニークなギタリストだった。ロックの歴史の中でヘンドリックス、ベック、
ジミー・ページやフランクの様な偉大なギタリストが数多く現れた。みんなそれぞれ、特徴を持っているけど、フランクの音楽性はかれらよりもっと奥深いものなんだ。
彼は「ズート・オルアーズ」や「トウェンティー・スモール・シガー」等の美しいギター
曲を書いている、実際これらの曲は驚くべきものだよ!

彼に対しては、あの有名なトイレに座っているポスターや、風変わりな話ばかりが一人歩き して世間に広められている気がする。それから、全く喜劇的な事だけど狂人やドラッグフリークだと思っている人達までいる。
フランクは頭の切れる男だった。彼は60年代に世に出たけれど、90年代にフランクの様なクラシックの要素のある前衛ロックで世に出るのは困難な事だ思う。
 無名なレコード会社からやっとレコードを出す位が関の山で、終いには 食えなくなってしまうだろう。でも、フランクはそれを一つの小さな産業として築き上げたんだ。彼はとても利口だった、それが一番重要な事さ。

小野洋子

*ご存じの様に、フィルモアイーストでジョンレノンと共にマザーズと共演した経験をもつ
 前衛芸術家(シュールレアリズム?)だった彼女はザッパと話が合ったのでは?と個人的に思う。

ザッパと最後に電話で話したのは歌詞検閲に対して活動をしている時だったわ。彼は活動を支援してほしいと言ってきたの。でも、まだジョンが亡くなって数年しか経っていなかったので、メディアに露出したくなかった。それで、ワシントンに来て欲しいという彼の頼みを断ってしまった。
でも、彼は一人で充分対応出来ると思った。彼はそうした強い心を持っていたし、知的かつ厳格で、いつも的確に自己を表現していたから。
ショーンはフランクの様なタイプの人はあまりいないっていうの。ショーンの年代にとっては、検閲問題に対するフランクの活動に関心があるみたいで。
これは、彼の音楽も同様に彼らにとって興味深いという事と同じだと思う。
フランクの音楽はこんな風に、これからも後の世代の人たちによって何回も、再発見されていくと思うわ。

MARK  VOLMAN
  *1970〜71年のマザーズに在籍した、フロアンドエディーの片割れ。かけあい漫才のようなステージ     で新風を注ぎ込んだ。元タートルズで「ハッピートゥゲザー」は映画ブエノスアイレスのお陰で今が旬
     の流行曲。
     その後もザッパは何度も彼らを引っ張り出そうとしている。何か、特別の感情を2人に対して
     もっていたのかも知れない。

フランクが心から動じた事は一回もなかった、いつだって平静だったよ。どこからみても、フランクは過激な人物じゃなかったな。何かが上手くいかなかった時も特に否定的になるわけでもなくてね。とても落ち着いていたんだ。
俺達がちゃんとステージを務めていて、期待通りの演奏をしている限り、フランクはその曲の中に俺達が自由に楽しめる空間を作る。毎晩、その中で自然発生的に何かが起こるんだ。そんなのって、他のロックン・ロール・バンドでは経験出来ない。今に至るまでね。
みんながアドリブだろうと思っているようなことの形を整える為に、たっぷりリハーサルした。「ビリー・ザ・マウンテン」とかね。毎日、毎日、いつ果てるともなくリハーサルを繰り返すんだ。想像してもらえるんじゃないかな、演奏に45分もかかって、話がどんどん飛躍する「ビリー・ザ・マウンテン」のような作品を構築するのが
どれほどたいへんな事か。準備には何カ月もかかったよ。実際の段取りは、ブロードウェイ・ミュージカルと似たようなものだった。
フランクは真の意味でルネッサンス的な人物だった。クラシックとジャズの作曲家
として、指揮者として、長編映画の監督として。ひとびとがその作品を好きになってくれたり、レビューを書いてくれるまで待つなんて事はしなかった。
何か一つ完成されたら、俺達は他の何かにすぐとりかかっていたんだ。
(この項のみ、THE  DIG誌1995年2号より引用。)

RUTH・UNNDERWOOD

言わずと知れたザッパ・バンドの歴史上(いや、ロック界全般で見ても)最高のパーカッショニスト。ダブ・ルーム・スペシャルで見られるプレイは的確かつシャープなものである。また、笑顔もキュートで、隠れファンも多い(?)。まだ、イアンとの結婚生活は続いているのだろうか。
このエピソードを読むと、フランクにとって、ルースが忘れられられない存在だった事がわかる。

2年前、(1991年)フランクが癌だと聞いて吃驚して早速電話したの。14年間私たちは何の連絡もとっていなかったから。彼は自宅へ招待してくれて、それから数回お互い本当に楽しい訪問を繰り返す事が出来た。1993年の6月、彼が電話してきて、私の為のサンプルを作ったから演奏してくれないかって行ってきた時は本当にショックだった。なぜなら、1977年の3月から私はマレットに触っていなかったのだから。仕方がないけどフランクの為だと思って結局、14時間練習したわ。それは私の空白期間を埋め合せるような出来事だった。それから4日間フランクのスタジオでパーカッションのサンプルを録音したわ。これは私にとって信じられない事だった。彼と再会して、また曲の演奏を依頼されるなんて。
フランクは亡くなった。それははっきりしている。。
しかし、最後のセッションの時、彼は疲れ果てて、呼吸もしっかりしていなかったのに、いつものように様々な方向へ考えを膨らませ、健康な時以上に引き込まれるようで、脅かすような鋭さときつい要求をし、かつすばらしい閃きを失っていなかった。
彼はロックン・ロールの世界にマリンバとビブラのソロとアンサンブルを取り入れた最初の人物だった。フランクは本当にパーカッションの世界に生きていたと思う。彼が私の為に書いてくれたパートは本当に演奏する事を満足させてくれるものだった。フランクは私の2つの手の為に作曲をしてくれた。彼はまた、私の気質、私の神経、私のユーモアに合うように、曲やパートを服を仕立てる様に作曲してくれた。私はエドマンや他のメンバーの誰であろうと、彼の音楽を演奏出来たのはそれだけで充分幸福だったと思う。私は作曲者ではないけれど、フランクの曲を演奏しているときにまるで作曲者の様な気分になれる時があった。
これは如何に彼が演奏者と刺激的な関係を持っていたかの証明だと思うの。
私はフランクのバンドで何年か演奏したメンバーで、彼のバンドで体験した事を上回るバンド体験をした人にあった事が無い。つまり、「オーイエー、今日の演奏
は最高いかしてだぜ。」ってすぐメンバーを持ち上げるリーダーの下で働くのとは全く正反対って事よ。フランクのバンドで体験した事は他の演奏体験とは全く比較の出来ない体験だったと思うの。



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