ポールの終わりの始まりの終わり

2014/02/09


 2013年11月21日、待ち遠しいでもあっという間でもなく、ポール・マッカートニー東京最終公演の日を迎えた。その日は万全を期して有休を取り(前日が会社の創立記念パーティー)、十分な睡眠を取り、それでも多少の疲れを残しつつ、夕刻に現地で嫁と待ち合わせて少し早めに東京ドームへ向かった。

 僕とポールの遭遇はこれまでに3回。1990年の「Get Back Tour In Japan」、1993年の「THE NEW WORLD TOUR」、2002年の「driving japan tour」。ポールが来日した際は必ず公演を観ている。それぞれの体験を一言で表すならば、最初は「目の前の現実を良く理解できなかった」、2回目で「ちょっと慣れてきて、ぼんやりと分かってきた」、そして3回目では目の前で起こっている事を「完全に理解して大号泣」ってな感じだろうか。

 最初の2回は、ポールもバンドも過去の(伝説の)名曲を再現する事へのプレッシャーというか、バンド用語で言うところの「完コピ」を目指してたような印象。当時のバンド・メンバーの優秀さもあって、その目的はほぼ達成されていたと思うし、90年と93年で大きくメンバーチェンジをしなかったのは、ポール本人もその状況を気に入っていたからだろう。ただ、今から振り返るとあまりにも「完コピ」であり、目の前のポールの演奏に今ひとつリアリティを感じられなかった(まるで東京ドームでポールのCDを聴いているような錯覚に・・・)。上手すぎるってのも問題だなと。

 しかし3回目はそうじゃなかった。バンドメンバーを一新し、より若手を起用することで、職人的な上手さよりもメンバ各人に演奏の裁量を任せた「生バンドっぽい」バンド(バンドだから当たり前なのだが)であった。この演奏を目の当たりにしたとき、僕は始めてそこで全てを理解し、嗚咽しながら崩れ落ちたのである。あんな衝撃の経験は後にも先にも無い。ものすごい衝撃であった。

 さて、あれから11年。ポールは御歳71歳。どう贔屓目に見てもお爺ちゃんである。もちろん僕も歳を取った。結婚して、新しい家に引っ越して、仕事の重みもすっかり変わり、今回は嫁と一緒にドームへやって来た。ちなみに嫁はビートルズもポールも全く知らない。ビートルズの4人を識別できないはずなのだが、嫁曰く「中でもポールがあんまり好きじゃない」との事(苦笑)。そんな中、一塁側二階席という過去最悪の席位置で、Venus and Marsよろしくポールの登場を待っていた。

 焦らし作戦っぽい壮大なプロローグが終わると場内暗転、眩しく証明が照らされたステージに颯爽とポール登場!軽い音出しの後、1曲目 Eight Days Weekのイントロが東京ドームを包むようにフェイドインして来る。正直、初期ビートルズの中では、この曲はまあまあと言うか、あんまり好きじゃない部類なのだが、それでもこうしてオープニングでガツンと演られると、やはり涙が止まらない。なぜなら僕は目の前で起こっていることを完全に理解できているからだ。演奏してるのは紛れもなくあのポール・マッカートニーであり、この曲ですら史上に燦然と輝く偉大なるイントロなのである。どんだけ凄いのかって事だ。その凄さを冷静に理解できればできるほど、体の反応はその真逆になる。

 4回目の遭遇インパクトが前半2〜3曲で落ち着いてくると、至極当然であり且つとても重要なことに気が付いた。ポールの声が出てないのだ。とにかく声がでていない。明らかなる衰え。そりゃそうだ。71歳なんだよ。20歳そこそこでハツラツと歌ってた曲を、50年後にまるで同じように歌える訳なんか無いのだ。特にビートルズ時代の曲は違和感が如実すぎて痛々しさすら感じるし、Maybe I'm Amazedのような高音絶叫系の曲はもう惨劇ですらある。これ、本人は絶対分かってるはずなのになぜ敢えて・・・。後に多くのコンサート評を読んだが、どれもこれも「全盛期と変わらぬ歌声」な論調ばかり。どこがだ?いったいポールの何を聴いてたんだ!と言いたい。短絡的に「圧巻のステージ」とか評する人々神経が理解できない。

 ここまで厳しい評価になるのは個人の趣向も影響しているのは認める。本公演の選曲も(個人的には)ちょっと残念だった。またLet Me Roll It演るの?とか、And I Love HerとかAll Together Nowよりも他にマシな曲あるよね?とか、なぜポールがMr.Kite?とかいろいろ。Helter Skelterなんかは演奏することにのみ意義があるとでも言わんかのような自爆行為のようだったし、なんかこう本ツアーを象徴するような一曲、これまでのDrive My CarとかHello Goodbyみたいな、かつての名曲であり且つ今やるからこそ意味もある、って選曲が無かった。結果、ノスタルジーにも浸れず現在進行形も感じられず、なぜこの選曲したのか?という疑問が最後まで拭えなかった。なんかこうもう少し今のポールと過去の作品群との丁度いい感じの選曲ってあったんじゃないか、と思うと残念でならない。

 一方、最新曲はとても良かったのだ。想像してたより遥かに良かった。今のポールが今の肉体で今のフィーリングで作曲し歌う。これこそポールの真骨頂であり、進行形の凄まじさなのだ。こういうジャストフィットな曲をもっと沢山聴きたかった。でもそれができないし、やらないのが今のポールであり、ポールのパーソナリティーなんだとは思う。満足に歌える歌えないに関係なく、ファンが望むビートルズ時代の楽曲の多くを演らなきゃいけない。嫌々って事では無いんだろうけど、ジョンとジョージ亡き今、伝説を一人で背負ってると言うか、責任感と言うかサービス精神と言うか、それがポールってのは理解はできる。同窓会的な音楽活動を細々と続けているリンゴ(そのスタンスも好きなんだけど)とはやっぱり違うのだなあと。

 ステージ上の動きも以前ほどアクティブではないし、声も出てないし・・・そりゃそうだ71歳なんだよ。二十代の頃の曲を、つい数年前まで違和感なく歌えてたことの方が異常なのだ。MCでも、もちろんいつもの太陽にようなポールなんだけど、前回の来日時のような圧倒的な輝き、全身からみなぎるパワーみたいなのは減ってたような気がする。何というか、午後三時頃の柔らかい陽射しというか、夕暮れまでは行かないけれど、そんな感じ。終わりの始まりの終わりである。

 ポールは覚悟してるんだと思う。もう自分は過去の自分の作品を満足に歌えなくなったことを知り、今回がいわゆるポール・マッカートニー興行の幕引きになるであろうことを。

 僕はそれでも良いと思っている。恐ろしいことに肉体は衰えても才能は今だ進化すらしている。それは最新アルバム「NEW」を聴けば分かる。未だにマスターピースとなり得る作品を送り出し続けていて、この人どこまで行くのだ!と率直に思う。驚愕である。今のポールが今のフィーリングで作る曲がもっと聴きたい。そして、肩肘張らないコンパクトで粋なライブを見てみたい。 ファン・サービスを優先するのでなくてね。

 東京公演の最終日には、主催者側から観客全員に赤色のサイリウムが配布、アンコールで一斉に点火するという、ポールへのちょっとしたサプライズがあった。ポールがどう思ったかは窺い知れなかったが、その作戦の一員に加われた事は非常に光栄だった。ミクロン単位だったけれど、具体的な形でポールにサインを送れたのだから。ありがとう、ポール。



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Y.YAMANAKA(yamanaka@os.rim.or.jp)