われさえよきゃええねん



 三十路に突入してから早一年。30才代として安定軌道(?)に乗り始めた今日この頃である。一般的な視点で捕らえれば、僕はもうすっかり「大人」なのである。困ったものだ。今更という感じなのだが、僕には未だに「大人」になった実感が無い。「大人」ってなんだろう。

 子供の頃、毎週日曜日の夕方にはテレビで「サザエさん」を見ていた。時折そこに登場するマスオさんの働くサラリーマンの姿が、僕にとっての「大人」のイメージの全てであった。部長に突然「じゃ、この書類を明日までに頼むよ」と命令され、最初はガックリした表情を見せるも程なく一念発起し、捻り鉢巻で山積みになった書類と格闘を始める。この「何だかよく分からない大量の書類を片付ける」ことが僕にとっての「大人の仕事」であり、それを実行するマスオさんの姿は「大人のイメージ」なのであった。就職して数年経つのだが、未だにあの「大量の書類」が何だったのか皆目検討も付かない。

 とは言うものの僕は年齢的にすっかり「大人」であり、「大人の世界」に足を踏み入れているのである。踏み入れているどころではないな。どっぷりと浸かっている感じだ。大人の世界に入って一つだけはっきり分かったことがある。それは「大人の世界って思っていたよりもいい加減だ」ということである。

 子供だった頃(今でも内面的には子供だと思うのだが・・・)は、とにかく早く大人になりたいと思っていた。大人というのはいろんな事を知っていて、頼りがいがあって分別があって、朝から晩まで一生懸命、真面目に働いているものだと思っていた。憧れ、というのとは少し違うが、「早くああいうレベルに達したい」という思いが強くあったのだ。「大人」ってカッコ良いものだったのだ。

 ところがいざ大人の領域(社会?)に入ってみると僕の妄想はガラガラと音を立てて崩れ去ったのであった。とにかく失望したのは、大人なのに「大人らしくない」「大人げない」人がどうしてこんなにたくさんいるんだろう、という事実である。大人の世界の中の大人はちっとも大人では無かったのだ(ん?)。

 「大人らしくない」と言ってもいろいろなバリエーションがある(苦笑)。とにかく一番目に付くのは「自分の利益が最優先」的な物の考え方だ。大阪弁では「われさえよきゃええねん」と表現する(あえて大阪弁で表記したのは言葉の音感が僕の表現したいイメージにより近いからだ。関西人に自分勝手な人が多いという意味ではありません。念のため)。この「われさえよきゃええねん」は個人としても社会としても、当てはまるシチュエーションがあまりにも多くてウンザリさせられてしまう。

 もの凄く身近な例を挙げれば、電車の中で携帯電話を使用してはイカン!とこれだけアピールされているにも係わらず、その状況は一向に状況は改善されない事実。百歩譲って、申し訳なさそうに下を向いて小声で「今電車の中だから・・・」って対応している人はまだ良しとしよう。この人は自分の行為が人に対して不快感を与えているという認識があるからだ。

 ところが、信じられないぐらいにデカい声を張り上げ、我が物顔で「わっはっは」と電話をしている人の何と多いことか。この人達は「車内での携帯電話は使用禁止」というのを知らないのだろうか?もし本当に知らないだけだったら、まだ救いはある(これだけ宣伝されているのに知らないというのは別の面で問題はあるが・・・)。おそらく大半の人々は「使用禁止」を承知の上で「だからどうした」的にその禁を破っているのだろう。ではどうして破るのか?人それぞれいろんな思いがあるだろうが、多かれ少なかれ「われさえよきゃええねん」という意識が働いていると思われる。いくら他人に迷惑をかけようとも・・・である。自分がされて不快に思うことは他人にもしない、っていうのは社会ルールの大原則だと思うのだが、こんな最低限度の不文律ですらあっというまに破られてしまう。そんなに厳しいルールだとは思えないんだけねえ・・・

 とどのつまりが自己利益の追求なのだ。この「われさえよきゃええねん」がエスカレートした結果、警察は交通違反をもみ消し、雪のマークの牛乳屋の社長は平然と「わたしゃ昨日から寝てない」と言い放ち、菱が三つある自動車メーカーは30年も欠陥を隠し続け、緑の十字マークの薬品会社はウィルスに感染した薬を平然と提供し続けるのである。それによって他人の命が脅かされようとも、である。戸棚の饅頭を摘み食いするレベルではないのだ。

 なんだか「真剣10代しゃべり場」みたいになってきたので(苦笑)、もっと抽象的な例を挙げてみよう。

 100人中2人が何らかのズルをしたとする。悲しいかな実際問題として、残りの真面目な98人にズルしたことがバレなければズルい2人は何らかの得をすることになる。残念ながら神様はタイミング良く天罰を与えてくれない。しかし、この2人の得は残りの98人が真面目にやっているという前提があってこそ成立しているのである。ズルをする人が増えれば、相対的に真面目にやってる人の負担が増えていく。

 当然、真面目チームは「なんでズルする奴らの分までワシがやらなあかんねん」となるだろう。所謂「正直者が馬鹿を見る」ってやつだ。そんなの誰だって嫌だよねえ。やる気が無くなって当たり前である。こうして真面目チームからズル軍団へ人材流出が始まる。そりゃ馬鹿を見るぐらいだったら、魂を売り渡してでもズルしたくなるさ。気持ちは分かる。ズルの絶対数が増えてくると、ズルすることで得られる恩恵がどんどん目減りしていく。ちょっとしたズルが当たり前のようになってしまうのだ。ここまで来ると、後はズルのレベルがエスカレートしていくだけ。ズルを欺くためのズル・・・何が何だか分からなくなって収集が着かなくなってくる。こういう不安定な状態ってのが、最近よく言われる「病んだ社会」って奴の正体なのではないのかな?「われさえよきゃええねん」の最終形だ。無秩序。

 僕がこれまでに垣間見てきた「大人の世界」という所は信じがたいくらいに「正直者が馬鹿を見る」という世界であった。もちろん就職する前から、大人の世界の「えげつなさ」みたいなものはある程度想定はしていた。しかし少なくとも、大部分の人は真面目にやっていて「われさえよきゃええねん」って人は少数派だと思っていたのだよ。

 どころがどっこい、「われさえよきゃええねん」は少数派じゃ無かったのだ。過半数を超えているとは言わないまでも、犬も歩けばズルい奴に当たるって感じなのだ。マジで。歩く道によっては過半数を超えることもある。

 自分が可愛いと思うのは(レベルの差はあれ)みんな同じだと思うのだ。自分で自分の幸福を追求するのは少しも恥ずかしいことじゃない。でもそれは自分の利益のためなら何をしても良いって事では全然無いのだよ。

 いや、別にズルは良くない。みんな真面目にやりましょう、ってことを言いたいんじゃないんだ。言いたいのは、ズルをしたければ自由にしてもらって構わないけどそのリスクは自分で負ってくださいね、という事だけなのだ。自分の尻は自分で拭いてくだされ。大人なんですから。

 もちろん僕だって「われさえよきゃええねん」と思うことはある。ちょっとぐらいズルしてもバレなきゃいいか、と考えたことが無い訳じゃない。でもね、物事には限度ってものがあると思うのだよ。要はさじ加減なのだ。本来ならば、さじ加減が分からない人は徐々に淘汰されるものなんだが、悲しいかな今の世の中そうはならないのが現状。もはや何も期待しちゃいないけどね・・・

 僕はただ静かに、慎ましやかに過ごしたいだけなのだ。お願いだからそっとしといて欲しい。自爆したい人は自分の陣地でどうぞ。その時はくれぐれも破片を散らかさないよう。こんな僕は夢追い人ですか?