20世紀最後の衝動買い



2000/07/18

 先輩後輩を交えての飲み会の席。なんやかんやで盛り上がって宴もたけなわ。そろそろお開きにしますかねえって雰囲気になってきた頃、対面に座っていた先輩が冗談混じりにこんなことを言った。「ねえねえ、うちのマンション買わない?」その先輩の住まいは吉祥寺。井の頭公園の近くのまだ新しいマンションの1階である。僕も何度かおじゃましたことがある。

 僕は一昨年まで井の頭線沿いの高井戸に住んでいた。渋谷、新宿、下北沢までたったの30分だったにも係わらず、最も頻繁に遊びに行ってたのは反対方向の吉祥寺である。吉祥寺も自宅からおよそ30分。駅前の狭い範囲に丸井、パルコ、東急、伊勢丹、西武、近鉄などデパートが密集している。おまけに駅ビル内にも立派なモールがあるので買い物には事欠かない。映画館、本屋、レコード屋なども充実しているし、個人的にはハンバーガー屋がたくさんあるのも嬉しいところ。ちょっと歩けば井の頭公園はすぐそこなので、遅く起きた休日なんかは本屋で面白そうな作品を物色し、ハンバーガーとコーヒーを買って池のほとりでのんびり読書に勤しむ、なんてのが当時のお決まりのコースであった。吉祥寺という街が大好きだったのである。

 そんな思いが未だ心の奥底に残っていたこともあり、僕が先輩の家に遊びに行ったときには「いいなあいいなあ」を連発していた。「吉祥寺に住んでいる」なんて僕からすれば本当に羨ましい限りだったのである。そんな僕の「いいなあ」連呼は先輩の印象に残っていたようで、それが僕に対する「マンション買わない?」という発言に(冗談だったにせよ)繋がったようである。

 とは言うものの、やっぱりそこは飲み会の席。それもほろ酔い気分の後半戦である。冗談交じりに軽く口を突いて出たこの発言をまともに受け取る人などいるわけもない。その日はそのまま楽しい気分で解散と相成る。もちろん帰宅はご前様。

2000/07/19

 眠い目を擦りながら頑張って出社。先輩方と「楽しかったねえ」と昨日の飲み会を振り返る。何を隠そう(何も隠しちゃいないが)その先輩の席は僕の真後ろで、お隣には奥様が座っている。仲良く夫婦横並びでなのである(笑)。そんな朝の雑談で、またもや「ねえねえ、マンション買わない?」の発言が・・・。

 話しによれば先輩は近々に引越しを考えていて、今のマンションを売りに出す予定になっているとの事。早ければ今週末にもその広告が掲載されるという。なるほど、ホントにマンションを買ってくれる人を探しているのね。昨日の話しは丸っきりの冗談でもなかったのだ。

それでも「ねえねえ買わない?」「い〜っすねえ、買います!買います」ってなものではないのだよ。マンションなんてものは。全面的に冗談では無いにせよ、限りなく冗談に近いことには変わりない。まだまだこの時点ではリアリティーなんつーものは陰も形も無い。雑談はそのまま終了する。

 仕事を終え、いつも通りに遅めの帰宅。母親と夕食を取りながら世間話としてマンションの一件を話題にした。

 そもそも僕は生まれてこの方、一人暮しをしたことが無い。母親は「上げ膳、据え膳」で生活してきた僕を評して「一回ぐらいは一人で生活してみないとねえ」ということを皮肉を込めて繰り返し言っていた。皮肉に対しては苦笑いをするしかなかったが、その意見自体は僕も同感であった。必要が無かったからとは言え、ずーっと実家に暮らしていることに対する漠然とした不安感のようなものは常に抱いている。料理は野菜炒めぐらいしかできないし、洗濯機の使い方も分からない。住民票とか印鑑証明とか、そういう類の「世帯主」的な作業も殆どやったことがない。正に「世間知らず」そのものである。例えは悪いが、突然に両親がポックリ行ってしまったら僕はどうなるんだろう、というような思いはこんな僕でもやっぱりあるのだ。

 しかしマンション購入などという突飛な話題に母親はあんまり良い顔をしなかった。曰く「特に何の計画も無いのに無理すること無い」。そりゃそうだ(笑)。それでも「とりあえず話だけでも聞いてみたら」というところに落ち着いた。話を聞くだけならだけなら無料だもんねえ。

2000/07/24

 先輩からマンションの間取り図などの詳しい資料を見せてもらう。自宅に持ち帰ってケンケンガクガクの家族会議を行う。この辺から妙にリアリティーのある話になってくる。

 以前から「どーせ一人暮しをするんだったら賃貸じゃなくてマンションを買ったほうが良い」という思いは僕の中にはある。アパートを借りる場合、その家賃はとどのつまりが「レンタル料」なのである。当然、レンタル期間が終わったら部屋を返却するのだが、毎月の家賃は払うだけ払ってあとには何も残らない。マンションを購入した場合は、ローンを組んで毎月少しずつ返済していくのだが、返済した分は確実に自分の物になっていく。もちろんこの場合は大きな借金を背負わなきゃならないわけだが、どうせ同じような金額を毎月払っていくのであれば賃貸よりはずっと良い。お金に疎い僕でもそのぐらいのことは考えられるのだ。

 にわかに具体的な話で盛り上がる僕と両親だが、このまま家で話し合っていても埒があかない。とりあえずは前向きに検討を進めるということで先輩にコンセンサスを取ることにする。実際問題として、毎月どのぐらいのペースで返済していくのか聞いてみないと分からないもんねえ。

2000/07/25

 さっそく先輩に「真面目に検討したい」との報告する。まさか本気で考えてくるとは予想していなかったらしく、少し驚いていたみたいだけれど、それでも「良ければ是非」ということで話しを進めてもらうことにした。ここからの展開が妙に慌ただしくなる。その日の午前中に先輩から仲介業者さんへ「後輩が興味を示している」と話をしてもらった。午後には僕からも仲介業者さんに連絡を取り、週末に話を聞きに行く約束をした。おお、マンション購入の話をしに行くのだ。緊張する・・・

2000/07/26

 引き続き、家族会議の日々。はっきりとは言わないが両親はあんまり乗り気では無いようである。なんだかんだといろいろ理由は出してくるが、結局は「特に目的があるわけじゃなし、なんで今なのか」というところに意見が集約する。まあ、確かに「なんで今?」ってのはあるなあ。

 乗り気でない理由はもう一つある。そのマンションは築2年ちょっと、間取りは3LDK+S(サービスルーム)、吉祥寺駅からバスで2分、近所にはスーパーや病院もあり、井の頭公園はすぐそこ。どこから見ても良い物件なのだが、両親が気にかけているのは部屋が「マンションの1階」であるということだ。

 一昨年までうちの家族が住んでいたのが正に「マンションの1階」だったのである。そこは今年で築30年という僕と同じ歳(笑)の古びたマンションで、入居当時はきちんとリフォームされていて分からなかったのだが、数年も経つと酷い湿気のおかげで壁紙は剥がれるわ床は抜けるわの大騒ぎであった。その他にも、2階の水道管が破裂して部屋中水浸しになったり、湯沸し機の管が詰まってお湯が出なくなり床を剥がして大工事をしたり、マンションの壁を全面的に塗り替えていたときは1ヶ月間ずっとシンナー臭かったし、湯船に使ってホッとしていたら排水溝からやってきたネズミと目が合ったり・・・。楽しかったけど、いろいろと大変だったのだ(苦笑)。

 そういう経験があってか、両親は「マンションの1階はちょっとねえ」という懸念が頭から離れなかったようだ。こういうのをトラウマという。

2000/07/29

 土曜日。三鷹駅前の「三井のリハウス」へ行く。近所の類似物件との比較や数パターンの返済計画を元に詳しい話をたっぷりと聞く。予想に反して住宅金融公庫ではなく民間銀行からの融資を受ける方向を勧められる。僕の感触では、立地条件や価格などから察するに物件の広告が出てしまえばあっという間に売れてしまうだろうと思う。しかしながら想像していたよりも厳しい返済計画だったので個人的には「こりゃだめかな」という方向へ思いが傾き始めていた。担当者の人には「来週までに結論を出します」と約束し、帰宅。

 家に帰ってさっそく両親に報告。意外なことに返済計画に関してはまんざらでも無い様子。何故か「息子のマンション購入」という一大事に盛り上がっている感じである。賛成したり反対したり、何を考えているのか良く分からない(苦笑)。

 あんまりグズグズしていたら先輩に迷惑がかかるのでどっちにしろ早く結論を出さなければならない。そうか、あんなことやこんなことも考えなくちゃならんのね。この日からあんまり眠れなくなる。むぐ〜っ。

2000/07/30

 早起きして、両親と共に物件を視察。会社でお世話になってる先輩の所へ行くのに手ぶらじゃねえ、ということで道中のとある店でワインを購入。ちなみに我が家でワインを嗜む者などいないので銘柄の選択は適当(笑)。

 車に揺られて約2時間。やっとのことで到着し、さっそく部屋を見せてもらう。取り急ぎ各部屋を巡回し、先輩にいろいろと説明してもらう。がしかし、ものの7分もしないうちに両親が「そろそろ失礼しようか」と切り出した。ええええっ、まだチラっとしか見てないじゃないか。もう帰るのか?何て問い正す余裕もなく、あれよあれよという間に両親はもう玄関で靴を履き始めている。ちょ、ちょ、ちょっと待って〜っ。あまりに急な展開に気が動転しながら、先輩に「あ、あ、あ、ありがとうございました」とお礼をし、マンションを後にする。

 帰りの車中で家族会議。どうも空気が重い。あんまり気に入ってもらえなかったのか?父親が「そう言えばクローゼットってどうなってんだろうな?」って、それを見に行ったんでしょうがあああ。

 家に着いてから最終的な詰めの協議に入る。最終的に残った懸念事項は「マンションの1階」と「価格交渉の有無」についてであった。家族で悩んでいても仕方ないので、先輩に現状をそのまま報告してみる。先輩の回答は至極シンプルで「湿気は新しいマンションなのでそれほど酷くはないし、日当たりも庭への採光で比較的明るい」「価格もそれなりに勉強しましょう」というものであった。おまけに、必要ならば生活準備に必要なカーテンや庭のお手入れセットも譲ってくれるという。ああ、何から何までお世話になりっぱなしである(この場を借りてお礼を申し上げます。<(_ _)>) 先輩からの回答を受け、再び協議に入る。もはや両親のモヤモヤした気持ちも吹っ切れたようで(会議に疲れたという話もある)、「あとは自分で決めなさい」と突き放される。う〜む・・・・・・。

よし、買おう!

 最後の決断を両親に伝え、直後に先輩へ連絡を入れる。「物件が良かった」「金利が低い」「売り主が先輩だった」などいろいろと理由はあるが、やっぱり一番の決め手は「吉祥寺に住みたい!」という僕の思いであった。これが他の街だったら絶対にこんな思い切ったことはしなかっただろう。ほとんど衝動買いみたいなものだもんねえ(笑)。

2000/07/31

 7月ももうおわり。会社から仲介業者さんに連絡をし、交渉がまとまったことを伝える。明日、源泉徴収書とローン調査票をFAXしてくれとのこと(源泉徴収書って年末の給料明細に入ってたんだ? 知らなかった・・・)。正式契約は週末のお昼に決定。頭金300万円を準備しなければならない。

2000/08/05

 正式契約の日。頭金300万円を鞄に詰め込み、心証大事に抱えながら三鷹駅前の「三井のリハウス」へ。先輩夫婦共々と机を囲み、担当者の方から山のような書類について丁寧な説明を受けた後、いよいよ調印式。頭金300万円を先輩に支払い(今まで貯めてきた僕の貯金を先輩に手渡すってのも妙な気分だ)、就職した頃に親から貰った大きな「実印」をこの日初めて使う。いくつもの書類に判子を押して無事に終了。とうとうマンションを買っちゃった。マンションだ。マンションである。マンションだぞ。マンションなのだ。楽しいマンション!愉快なマンション!マンション!マンション!マンションを買うなんて、何とも言えず「大人」って感じである。

 ここ数日間はとにかく大変な日々であった。仕事の事、生活の事、お金の事、将来の事、こんなにも短期間の間にありとあらゆることを検討し、考えなければならなかった。こんなに頭を使ったのは久しぶりだ。もの凄いエネルギーを消費したような気がする。契約終了後、最初に思ったのは「嬉しさ」や「達成感」ではなく「やっと終わった」という安堵感であった。ふぅ。

 引っ越しは11月初旬頃の予定。これからがまた大変なのであろう。なにせ一人で生活するって事が、どんなものなのか想像も付かないのである。「不安と期待が交錯する」とはこの事だ。まあ、どちらにしろやってみなくちゃ分からないんだから、やってみれば良いのである。ダメならダメなりに何とかなるだろう。何ともならないかも知れなが、ならないならならないなりに何とかなるもんだ(早口言葉か?)。何だか、訳が分からなくなってきたが、とにかくそういう事なのだ。

 というわけで、20世紀最後の衝動買いはこれにておしまい。