もう今世紀に用はない(前編)



 映画「マトリックス」を見てきた。脚本・監督は「バウンズ」で話題になったウォシャウスキー兄弟、主演はキアヌ・リーブス。世間では「キアヌ復活!!」などと報じられているのだが、僕の中では彼が落ち目になっていたなんて意識は全く無かった。確かにアル・パチーノと共演した「ディアボロス」以来、主だった作品には出演していなかったけど、「・・・・そうだったんだ」って感じである。まあ、とにもかくにも「マトリックス」で一躍時の人になったわけだ。個人的にも好きな役者なので喜ばしいことである。

 どんな作品でもそうなのだが、僕はその映画を見る前段階、劇場での予告編や巷の評判などからその作品が僕の嗜好に合ってそうかを判断をする。事前情報からその作品が醸し出している「匂い」を感じ取るのだ。今までのところ、概ね予想通りの結果を得ることに成功している。

 「マトリックス」の場合もその例外では無く、見る前から「これはいけるぞ」という確信があった。それは「漠然とした雰囲気」を感じ取ったとしか言いようが無く、その根拠を上手く説明することはできない。

 そして今回もその予想は見事に的中した。良い。とても良い。非常に良くできている。「マトリックス」は90年代の最後を締めくくるに相応しいサイバーパンク・ムービーの傑作として後世に語り継がれていく事になるだろう。そして今後製作されるこの手の作品は間違いなく「マトリックス」の影響を少なからず受けるはずである。それほど重要な作品である。

 その成功はさっそく続編2本の製作が決定していることからも伺える。「マトリックス2」は2002年の夏、「マトリックス3」は同年クリスマスに公開予定。2&3の公開時期が半年しか空いていないのは、2本を同時に撮影するということだろう。クランク・インは1年後を予定しているようだ。

 前置きが長くなったが、この「マトリックス」がどうして90年代を代表するサイバーパンク・ムービー足り得るのかを僕なりに考察してみたいと思う。

 そもそも「サイバーパンク」とは何か?乱暴に言えば「人間とハイテク技術を融合した世界を描くSFの手法」である。電脳空間(コンピュータネットワークと脳(精神)の直結)やサイバーなアクション(サイボーグ同士の戦い、未来兵器での戦闘)、ドラッグ文化など、ヒッピームーブメントとバイオレンスが混沌とする近未来社会を描いたものが多い。ウィリアム・ギブソンの小説「ニューロマンサー」に端を発したといわれるサイバーパンクというジャンルは90年代初頭に登場し、熱狂的に支持された。

 そして当然の如くサイバーパンクを題材にした映画も数多く製作された。多くの監督が小説に描かれているような「電脳空間」の映像化を試みたのだ。1994年にはウィリアム・ギブソンが自ら製作に携わった「JM」も公開され話題を呼んだ。偶然だが、この作品で主演を勤めたのもキアヌ・リーブスである。

 しかしながら「これぞ決定版!」と言えるクオリティーの高い作品は登場しなかった。現実世界を表現する場合はトコトンまで「リアル」を追求すれば良いのだが、小説の中で語られる空想上の「混沌とした電脳空間」の映像化はどんなに予算をかけようが高度なSFXを駆使しようが、最終的には製作者のイマジネーション如何にかかっている。

 逆に言えば小説の描写をそのまま映像化するだけではどうしても陳腐なものになってしまうということだ。例えばバーチャル・リアリティー(仮想現実)を題材にした作品には必ずと言って良いほどコンピューターに接続されたごっついゴーグルとグローブが登場する。主人公がそれを装着してバーチャル・リアリティーの世界へ潜入する、というやつだ。そこで映し出される仮想空間の映像表現がどんなに素晴らしくても、実際にはゴーグルとグローブを付けた人間が椅子の上でジタバタしているだけなのである。これがとてつもなく格好悪いのだ(苦笑)。こんなものにワクワクするはずも無く、ちっとも未来を感じない。

 余談だが、もしかしたらサイバーパンクというコンゼプトが持つ独特の混沌とした雰囲気はもはやハードウェアの進歩という側面からは表現できないのかも知れない。テレビのリモコンやコンパクトディスクなんかは10年前から見れば立派な未来の姿であった。それらが当たり前になった今の世の中ではハードウェアが未来を喚起させる対象として成立するとは思えないのだ。

 言うまでもないのだが、近年のSFX技術の進歩は目覚しいものがある。ディズニーが世界初のCG映画「トロン」を公開したのは1982年、僕はまだ小学生であった。確か「一秒の映像を作り出すのに200万円」とかいう触れ混みでかなりセンセーショナルな登場だった記憶がある(興行的にはパッとしなかったようだが)。今思えばiMacでも作れそうな「いかにもCG」っぽいコテコテの映像なのだが、その初めて目にする「コンピューター・グラフィックス」というもののインパクトは強烈だった。

 それが今ではCGが使用されていない作品を探す方が困難な時代である。SF作品に限らず、あらゆるジャンルの映画でCGがバンバン使われている。ただし「トロン」の頃と大きく違うのはそれが「CGであること」を主張するアプローチでは無く、実写映像をより実写に近づけるために使用されているという点である。初代の「スーパーマン」でスーパーマンが空を飛ぶシーンは俳優をワイヤーで宙づりにし、背景(書き割り)を高速に移動させるという「トリック撮影」であった。新「スーパーマン」では俳優と背景を別々に撮影し、編集時にそのフィルムを「合成」するという手法がとられた。現代のCG技術の利用はあくまでもその延長線上として、これまでの手法に取って代わるべく利用されているのである。「フォレスト・ガンプ」で主人公がケネディー大統領と謁見するシーンのように本物と見間違う程のクオリティーの高い映像表現が可能になったのだ。極めつけは何と言っても「ジュラシック・パーク」であろう。観客は「まるで本物のように見える恐竜」を期待して映画を楽しむのである。恐らくあの作品がテクノロジーで観客を集めることができた最後の作品だろう。これはこれで良い。

 しかし目を見張るようなテクノロジーの躍進にも係わらず、その技術の導入に必然性が感じられるような作品、その技術を存分に生かしきった作品は登場しなかった。「映像表現のための技術」では無く、「技術のための映像表現」といった本末転倒な作品が濫発されることになる。「ジュラシック・パーク」、「インディペンデンス・ディ」「アルマゲドン」、「タイタニック」いくらでも挙げることができる。軽自動車にロケットエンジンを積んだようなバランスの悪いこれらの作品は開発されたテクノロジーを存分に生かせるようなアプローチ、コンセプトが欠落しているのである。どんなに高級な道具があっても、それを利用できなければ意味が無い。技術革新に映像表現が追いつけなくなってしまったのだ。

 SF映画の歴史を振り返ってみると、それぞれの時代にはそれぞれの時代を代表するマイル・ストーン的な作品が製作されていることに気が付く。その作品とは「2001年宇宙の旅(1968年)」であり「未知との遭遇(1977年)」であり「スターウォーズ(1977年)」であり「ブレードランナー(1982年)」である。これらに共通するのは、作品自体のクオリティーや導入されたテクノロジーはもちろんのこと、その映像表現へのアプローチ、コンセプトの斬新さがそれ以降の映画製作に多大なるインフルエンスを残したという点である。90年代にも優れたSF作品は数多く存在するが、今後の映画製作に影響を与えるような作品は登場していない。

 コンセプトが突飛で壮大なものになればなるほど、それを映像化するのは困難だ。それが現実には存在しない「仮想空間」となればなおさらである。通り一辺倒のやりかたでは絶対に成功しないのだ。求められるのは既存の常識を覆すような斬新なアプローチである。では「マトリックス」は仮想空間の新しい表現方法を開拓したのか?否。この作品が斬新だったのは映像表現の方法論では無く、その提示の仕方なのだ。

 ・・・・・・ここまで書いて、ちっとも「マトリックス」についての考察に入っていないことに気が付いた(苦笑)。「徹底解明」編は次回に持ち越しとする。