ホームシック



 彼は生まれてこの方「ホームシック」というものに罹ったことがない。旅行や出張などでしばらく家を離れたとしても、寝付きが悪いとか食事が合わないなどの不満はあっても、「家が恋しくて堪らない」といった気持ちになったことは無かったのである。

 彼は決して自分の家に愛着が無い訳ではない。彼は自分が最もリラックスできる場所が自分の部屋のソファーであることを知っている。あまりに居心地が良いので、休日などは一日中そこに寝そべったまま、ずっと映画を見ていることもある程だ。しかしそういう「心地良さ」を渇望する気持ちはあっても、それが恋しくて寂しくて、といった気持ちになることは無いようなのである。

 ホームシックになった経験のある人に聞いてみると、それは「寂しくて死にそう!」という激情型の感情ではなく、ただ何となくブルーな気持ちになって、集中力を欠くようになり、食欲も減退、酷いときには寝込んでしまうこともあるという。ホームシックと言えども、ここまでくれば立派な病気(シック)である。しばらく家を離れたというだけなのに、人間の感情とはかくも複雑にできているもののようだ。

 幸か不幸か、とにかく彼はそういう気持ち、状態になったことが無い。確かに彼の人生において「ホームシック」になるほどの期間、例えば数ヶ月間という単位で家を離れた経験は今まで無かったので、たまたまそういう状態にならなかっただけなのかも知れない。もしくは生まれつき「ホームシック」にならない体質(そういう体質があるのだとすればの話だが・・・)なのかも知れない。どちらにせよ子供の頃ならいざ知らず、社会人となった今では、精神的にも時間的にも、今後「ホームシック」になるような機会はあまり無いであろう。なりたくてもなれるものでもないし。

 ある日、彼は父親と夕食後の団欒を楽しんでいた。取り止めも無い会話をしている時、何かのきっかけでホームシックの話になった。父親は半ば苦笑した表情で、昔を懐かしむようにこう言った。「そう言えば昔、お前が婆ちゃん家にお泊まりしたときに、夜中にホームシックになっちゃって大変だったなあ・・・」。ホームシック! 彼にとっては初耳の話であった。生まれてこの方、自分はホームシックになど罹ったことが無い、そういう体質では無い(そういう体質があるのだとすればの話だが・・・)と確信していたのに、まだ知ることの無い彼自身における新事実の存在を知ったのである。意表を突かれたその発言に、彼は動揺と興奮に苛まれつつも、無意識のうちにその感情を押し殺し、少しオーバーな位の驚いた顔をして見せてこう言った。「えっ、そんなことあったっけ? 全然覚えてないなあ」。あとは黙っていても、そのときのエピソードが語られることになるのを彼は知っていた。

 子供がお婆ちゃんの家に「お泊まり」をするのは、幼稚園ぐらいの頃だろうか。やっと自我が確立されてきて、おぼろげながら自分という存在に気付き始める時期である。そんな中、たった一晩でも親元を離れるというのは、小さい子供にとってはちょっとした冒険である。そんな事を思いながら、彼はこれから語られるストーリーを概ねこんな風に予想していた。

 「小さい頃の僕は、とある週末にお婆ちゃん家へお泊りに行った。最初のうちはいつもとは違う環境の物珍しさと、ちょっとした冒険心に後押しされ、親戚の人達にちやほやされながら、やりたい放題に遊びまわっていた。しかし、夜も更けてきて就寝する頃になると、急に家が恋しくなってきて、真夜中にとうとう「おうちへかえりたいよお〜!」と激しく泣き出してしまう。結局、深夜にも係わらず両親が迎えに来て、そのまま自宅に連れて帰った」

 非常にありがちな、オーソドックスなストーリーである。皆が寝静まってから急に寂しくなるところなど、何とも子供らしいではないか。「ホームシック」の典型的なエピソードではあるが、彼にとってはこれで充分であった。こうなるはずだという確信を持ちながら、父親が語り始めたかつてのホームシックのエピソードに耳を傾けた。

 ところが、結果的には彼の予想は大きく外れることになる。いや、ほとんどが予想通りだったのだが、最も重要なシーンで意外な展開を見せたのである。皆が就寝するところまでは全く同じ。問題はその後である(子供の名前を仮にユースケとする)。

 「夜もすっかり更けて、皆すっかり寝静まろうとしていた頃、お婆ちゃんはユースケがきちんと眠っているかどうか様子を見に行った。起こしてしまわないよう静かに部屋に入ってみると、驚いたことにユースケは窓の外をじっと見つめたまま、大粒の涙を流して立っていたのである。その小さい小さい泣き声を必死で押し殺して・・・ 「どうしたの? お家へ帰りたいの?」とお婆ちゃんはやさしく問いかけるが、ユースケは黙って首を横に振るだけであった。しかしその気持ちが真実でないことは、そのいじらしい程の悲しい表情を見れば一目瞭然である。お婆ちゃんは「帰りたいんだったら帰っても良いんだよ」と何度も繰り返すのだが、ユースケは最後まで首を縦に振ろうとはしなかった。結局、お婆ちゃんはユースケの同意の無いまま、このままお泊りするのは無理であると判断し、ユースケの両親の元へ電話を入れることにした。両親がすぐさま迎えに来たのは言うまでもない。」

 夜中に一人ぼっちになってしまい、急に寂しくなってしまう。子供の頃なら誰でもそうであろう。しかし寂しく思う感情を直向きに隠そうとし、決してその気持ちを認めようとしなかったのである。自分の弱い部分を決して人には見せない。これぞ正しく「男の美学」ではなかろうか。こんな小さな頃から、彼の性格はほぼ決定付けられていたのである(苦笑)。なるべくして今の彼がある。彼にとっては嬉しくもあり、少し悲しくもあるエピソードであった。

 そして彼は、ホームシックになってしまいそうな遠い距離を、今日も元気に通勤している。