さよならじゃない・・・



 僕の後輩は今年で入社4年目。初対面は彼女が新人研修を受けている頃、僕がその研修の講師として参加したときであった。大抵の場合そうなのだが、パソコンに触ったことはあっても本格的にプログラミングをするのはこれが初めて、という新人が多い。彼女の場合も多かれ少なかれそんな感じであったのだろう。研修中、僕に対する最初の質問は「半角のアンダーバーはどうやって入力するんですか?」という微笑ましいものであった。今となっては懐かしい思い出である。

 新人研修が終わり、彼女は僕と同じ部署に配属された。僕は「僕が先輩になったときにこれだけはやろう」と思っていたことがある。それは新人に「話しかけてあげる」ということだ。皆そうだろうが、僕が新人の頃に一番感じたのは「心細さ」であった。当時、まだ慣れない職場で一人ポツンと座っていたときに、たまたま後ろの席に座っていた先輩が「どう?大丈夫?」と声をかけてくれた。たったそれだけのことなのだが、不安と緊張でガチガチになっていた僕にとっては本当にありがたいことだった。

 そして僕がその役目を果たす日がやってきたのであるしかしそんな思いとは裏腹に、これが思うように話しかけられないのである。後に彼女は「そうでしたっけ?」ととぼけていたが、僕が見た限りではやはりガチガチに緊張していた。退社時に「お先に失礼します」と言ったときの「笑おうとしているんだけど全然笑えていない顔」は今でも忘れない。そんな彼女の全身から発せられる「緊張感」というオーラに阻まれて、こちらまで緊張してしまったのである。今考えると何だったんだろうと思うが、とにかく最初から「駄目な先輩」だったのである(笑)。それでもしばらくするとすっかり会社の環境にも馴染んできたようで、それなりに仕事をこなすようになっていった。社会人とはそういうものである。

 最初から唯一心配だったのは、彼女が加わったプロジェクトのリーダーの存在であった。かつて僕もその人と仕事をした経験があったのが、控えめに言っても僕の中での評判は「最悪」であった。彼女が初めて参加するプロジェクト。そのリーダーがそんな風だったので、それだけが気がかりであった。(当時、そんなことを思っていたのは僕だけだったようなのだが、後に僕の判断が正しかったことが証明される)

 そんな心配もあって、彼女には「分からないことがあったら何でも遠慮なく聞いてくれ」と念を押した。プロジェクトが違うこともあって、僕ができるのは開発上の質問に答えることぐらいだったのだ。(個人的には「先輩が後輩に教えるのは当たり前」だと思っている)もちろん当初は初歩的な質問が多かったのだが、時が経つに連れてそのレベルは上がっていき、最近では僕も良く知らないような質問をされて、慌てて調べ直すようなことさえあった。一緒に仕事をしたことは無いのだが、開発者として徐々に成長していくそんな彼女の姿を見るのは、本当に嬉しい事であった。

 あれはいつのことだったか、僕の作ったパッケージソフトを展示会に出品したときのことである。その日程は一週間ぐらいだったのだが、なぜか開発者も説明員として借り出されることになっていた。正直言って開発者が営業的な活動をするという方針には抵抗を感じたが、そのソフトの殆どを開発した者として、その責任を強く感じていたこともあり、あまり気乗りはしなかったのだが、結局は参加することに同意した。

 しかし、なぜかローテーションには彼女を含む全く関係のないプロジェクトの方々が僕の知らないところで勝手に組み込まれていたのである。おまけに当時、彼女の携わっているプロジェクトは端から見ていても忙しいということが如実に分かるほど忙しかったのである。僕が手がけたソフトのために、関係ない方々に迷惑をかける事など絶対に黙って見ていられなかった。僕は激怒し、勝手にそのローテーションを組んだ上司を問いつめた。「どうして関係ない方々がローテーションに入っているんですか?」「あそこのプロジェクトは今、こんなことをしている余裕なんて無いんじゃないですか?」「僕が作ったソフトのために人に迷惑をかけるなんて絶対に我慢できない」「人手が足りないんだったら僕が毎日担当しても構わない」

 その上司はその場では「分かった、考えてみる」と言ったのだが、蓋を開けてみれば、彼女を含む関係のない方々もローテーションに組み込まれたままであった。おまけに僕のローテーションは「全日担当」ということになっていたのである。僕は利用されたのである。「利用された」と思ったのはこの時が始めてである。これの事実を知ったとき、あまりの怒りで体が震えた。かつてこれほどの憤りを感じたことはなかった。僕が作ったソフトのせいで関係のない人に迷惑をかけることになってしまったのである。その方々に対し、どんな顔をしていいのか分からなかった。

 展示会終了後、参加していただいた方々にお礼とお詫びのメールを出した。正に失意のどん底。あとに残ったのは怒りの残骸と果てしない失望だけであった。「僕さえいなければこのプロジェクトは消えて無くなる」この時、入社以来初めて真剣に退職を考えた。

 そんな時、彼女からメールの返事が送られてきた。そこには「会社としての製品なのだから、その一員として参加するのは当然です。それが組織ってものなんじゃないでしょうか?」「せっかくパッケージ担当という大役に付いたのだから、このチャンスを生かして頑張って下さい」「後輩のくせに生意気言ってすいません」と書かれてあった。僕は馬鹿であった。彼女は全て分かっていたのである。うれしさのあまり不覚にも涙が出た。僕が彼女のためにできること。それは今、目の前にある仕事をこなしていく事なのであった。先輩として恥ずかしい姿を見せることはできない。そんな思いが、今でもこうして仕事を続けていられる理由に他ならない。素晴らしい後輩を持つことができて、僕は幸せである。

 最近になって、「リーダー以外の人間もプロジェクト管理の作業を行う」という方針が進められるようになった。リーダー候補生として開発作業とプロジェクト管理を平行して行うことで少しずつ一人立ちをしてもらおう、と建前上はそういうことになっている。しかしながら、入社3年目である彼女にとっては開発作業と面倒なプロジェクト管理の作業を押しつけられ、しかしプロジェクトの実権はリーダーにある、という最も割の合わない立場に追いやられてしまうことになった。僕はどうしてもこの現状に納得がいかなかったので、僕の直属の上司、果ては部長にまでこの矛盾点を問いただしてみた。しかし彼らは入社3年目の人間が「プロジェクト申請」や「見積もり業務」「外注発注」などを行うことについて、特におかしい事だとは感じていなかったようだ。「発注伝票を書くのと同じ」などというアホな意見まで飛び出した程である。自分たちの入社3年目がどんな風だったのか思い出せないのだろうか。この件に関しては、彼らが何を考えているのか僕には未だに理解することができない。

 しかし、それでも彼女は頑張っていた。端から見ているだけでもそう感じるのだから、実際はもっともっと頑張っていたのだと思う。最近になって彼女が情報処理の資格を取得したのも、そういう「認めてもらいたい」という姿勢の現れであろう。少なくとも僕はそんな彼女の頑張りをしっかりと認めていたつもりである。どうしたらそんな彼女をサポートできるのか、そんなことばかりを考えていた。しかし、彼女直属のリーダーはそんなことはお構いなしだったようである。開発作業と管理業務を無理矢理押しつけ、毎日夜遅くまで残業させられ、挙げ句の果てにはここに書くのも憚れるような辛辣な言葉を浴びせていたようである。その時、僕はその場にいたら思いっきりぶん殴って、そのまま辞めてたかもしれない。結局、きれい事を並べただけの「リーダー以外の人間もプロジェクト管理の作業を行う」という方針が彼女を一番割の合わない立場に追いやってしまったのだと思う。

 そんな彼女が今月限りで開発業務を離れることになった。退社してしまうのではなく、開発業務に関連する書類や手続きを取り仕切る「書記」さんになるのである。とうとう僕がずっと気がかりだった事が現実の物となってしまった。彼女から初めてその相談を持ちかけられたときには、悔しいかな即座に反対することができなかった。その時の彼女の立場を考えれば考えるほど、どうしても「もう少し頑張ってみろ」とは言えなかったのである。結局、僕は彼女に対して何の力にもなれなかった。ただただ、黙って見てるしかなかったのである。先輩失格。自分の無力さに愕然とする。

 彼女もこの決断を下すまでには相当に悩んだのだろうと思う。あれだけ頑張っていたのだから。僕も開発者の端くれとして、彼女が開発から離れてしまうという事にに寂しさは募って止まない。いつか一緒に仕事をしたいという夢は叶わなかった。しかしその勇気ある決断を快く支持してあげる事こそ先が輩として、兄貴としての役目なのだろうと思う。今後も同じ部署で仕事をするわけだし、書記さんになれば今まで以上に顔を合わせる機会も多くなるだろう。そしてこれからも僕にとっての可愛い妹分であることに変わりはない。彼女ならやれるだろう。心から健闘を祈りたい。これでさよならじゃないのだ。

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