キューブリック逝く



 ご存知の通り1999年3月7日、映画監督のスタンリー・キューブリック氏が死去した。享年70歳。僕が最も敬愛していた映像作家であった。はっきり言って僕の映画好きはこの人の責任である。中学生の時に「2001年宇宙の旅」を見てからというもの「博士の異常な愛情」「バリー・ロンドン」「ロリータ」「時計仕掛けのオレンジ」「シャイニング」「フルメタル・ジャケット」など、可能な限りキューブリックの作品を追い求め、この人はどんな人なのか、何を考えているのか、何を表現したかったのか、ということをずっと探りつづけてきた。

 キューブリックの映像表現はとにかく「美しい」の一言に尽きるのでは無いだろうか。撮影の対象が美しいのではなくて、撮影された映像それ自体が美しいのである。「完全なる映像」とでも言えば良いのだろうか。均整の取れた完璧な構図、遠近感、オブジェクトの配置、絶妙な編集は目前に突き出されたナイフのごとく、見る者に隙を与えない。美しさを通り越して緊張感さえ感じさせる程である。

 キューブリックは作品のクオリティーはもちろんのこと、完成までに湯水のごとくお金と時間をかける監督としても有名である。一つのシーンを何十回、何百回と納得が行くまで撮影を繰り返し、気に入らなければそれらを全て破棄することも珍しくないという。そうやって選りすぐられた映像の断片を、見事な編集によって正に「キューブリック・ワールド」に仕立て上げるのである。周囲のスタッフは大変だったろうが、これがキューブリックをキューブリック足らしめる所以である。過激なアートストの面と緻密な職人の面を併せ持っていたのである。

 今思えば、僕が直線的でシンメトリカルな物体、映像を嗜好する性格はキューブリックの作品に影響を受けているからなのかも知れない。キューブリックの映像表現は左右対称、遠近の対比、限定された空間、といった手法を多用する。その多くは美しく、非人間的であり、完成された映像として僕の中に刻み込まれている。昔からデザインでも何でも「自由な曲線」よりも「制約のある直線」の方に惹かれる傾向が強いのは、そんな作品を数多く見てきたからなのだろう。テーマとしての「過激さ」と「職人的」の共存は会い通じるものがあり、やはりキューブリックは、僕のアートに対するスタンスを決定付け他と言えるかもしれない。

 キューブリックの完成された映像美から強烈に感じるのは人間の深層心理に内包されている「映像では表現できない何か」を表現しようとする姿勢である。今まで作品の題材として用いられたのは文学作品、大スペクタクル、SF、戦争、サイコスリラー、アバンギャルドと多岐に渡るが、共通しているのは「映像では表現できない何か」への試みに他ならない。それは時に「人間の狂気」であり「神の見えざる手」であるのだが、根底に息づくコンセプトは一貫したものがある。これこそが、キューブリックの最も本質的な部分であり、見るものを異常なまでに覚醒させる理由である。他にこんな映画を撮る人を僕は知らない。対等に張り合えるのは「惑星ソラリス」「サクリファイ」「ストーカー」を撮ったロシアの映画監督、タルコフスキーぐらいだろうか・・・

 「2001年宇宙の旅」のオープニングシーンを目の当たりにしたときの衝撃は今でも忘れることができない。すっかり有名になった「ツァルストラはかく語りき」の印象的な旋律に導かれながら、スクリーン一杯にタイトルが「ジャーン!」と映し出される鮮烈な映像には、ただただ圧倒されるしかなく、訳も分からないままに涙があふれてきたのを思い出す。人は音と映像だけで感動することができるのである。すっかりこの作品に取り付かれた僕は、どうしてもこの映画の本質的な部分を理解したくなった。作品を繰り返し見ることはもちろんのこと、原作や多くの解説書、参考文献も読み漁った。この作品に関する情報ならば何にでも飛びついたものである。モノリスとは何なのか? HALは何故狂ってしまったのか? ラストシーンの意味は? あれから10数年、大まかな流れは理解したと思うのだが、キューブリックが本当に描こうとした核心の部分、「映像では表現できない何か」は未だ理解できていないのかもしれない。僕の中では「2001年宇宙の旅」はまだまだ終わっていないのである。

 キューブリックは死の直前まで撮影を行なっていたという。この夏公開予定の「Eyes Wide Shut」は前作「フルメタルジャケット」以来9年ぶりの新作となる。主演はトム・クルーズとニコール・キッドマン。サウンド編集以外はほぼ完成したようで、キューブリック本人も満足していたようである。この作品が正式な「遺作」ということになる。

 しかし、この「Eyes Wide Shut」以外にも「AI」と呼ばれる作品のプロジェクトが秘密裏に進行していたようである。 以下はインターネット上で拾い集めた断片的な噂を独自にまとめたものである。

 「AI」とはArtificial Intelligence(人口知能)を意味する。温室効果によって北極の氷が溶け、ニューヨークなどの世界の主要都市が水没してしまった未来を舞台に、様々な分野で使われるようになった知的ロボットが「2001年宇宙の旅」のHALのように自我を持つというストーリー。この作品には「2001年宇宙の旅」と同様アーサー・C・クラークが脚本に関係しているようである(ってことは脚本は完成してるのか? 読みたいっ!)。キューブリックは、映画の中で必要とされるSFX技術が当時のレベルでは実現不可能であるとし、91年頃にこのプロジェクトを一旦延期にした。しかし映画「ジュラシックパーク」を見るや、ついにCG技術の進歩が必要なレベルに達したと判断し、93年に製作を再開。既にセットデザインと特殊効果開発の最終段階まで行っていたとの情報もあり、「AI」は「Wide Eyes Shut」の次の作品になる可能性が非常に高かった。この「AI」には「ジュラシックパーク」の少年役、ジョセフ・マッツェロが出演している。キューブリックはこの少年の成長に合わせて5年ごとに2ヶ月ずつしか撮影をしなかったので(少年はキューブリックの仕事についていることでスピルバーグの目にとまった)こんなに時間がかかっていたのだという説もある。 そんな馬鹿な・・・(苦笑)とは思うが、キューブリックらしい噂ではある。恐らくこの作品が日の目を見ることは無いだろう。

 今年のアカデミー賞授賞式では特別にキューブリック追悼の場が設けられた。このときMCを勤めたのはスティーブン・スピルバーグ。もちろんSF映画の傑作「未知との遭遇」を撮った監督である。彼は「キューブリックがいなければ「未知との遭遇」も存在し得なかった」とその多大なる影響の程を語り、キューブリックを絶賛した。ちなみにキューブリックは生涯アカデミー賞を受賞することは無かった。名誉ある「無冠の帝王」である。

 キューブリック亡き今、心の底から期待できる映画監督というのは、僕の中には存在しなくなった。もちろん実力のある監督はたくさんいるし、これからも出てくるだろう。破天荒な発想と美しい映像表現を追求する若い監督には特に期待している。しかしキューブリックのような映像作家はおそらく出てくることはないだろう。「ワン・アンド・オンリー」とはこの人の為にあるような言葉である。万が一、同じような思考、発想をする人が存在したとしても、その人が映画を撮ることは無いと断言する。世界中どこを探しても、基地外に映画監督をやらせるほど寛容な製作会社などどこにも存在しない。2001年を目前にした今、天才が天才として生きられる時代は終わったのである。