ウルトラクイズは文化である



この11月、およそ6年ぶりに「アメリカ横断ウルトラクイズ」が復活した。今年は日本テレビ開局45周年ということで、それに関連する特別企画ということらしい。

何を隠そう僕は子どもの頃からウルトラクイズの大ファンなのであった。小学生の頃の僕は(今でもそうなのだが)単純に「知らない事を知りたい」というある意味での「知識欲」がとても旺盛であった。買う本といえば学研の「ひみつ」シリーズばかり(いわゆるコミック本は買ってもらえなかった)、もちろん「科学」と「学習」は小学校1〜6年生まで購読した。テレビは今で言うところの情報番組を見る事が多く、NHKの「ウルトラアイ」や「クイズ面白ゼミナール」などを嬉々として見ていたのである。とにかく、それまで知らなかった事柄をいろいろ知識として知っていくというのが楽しくて仕方なかったのである。

そんな中、大量のクイズ問題が出題される「ウルトラクイズ」は早くから僕にとってのフェィバリットな番組であった。当時は家庭用のビデオデッキなどまだ普及していなかったのでカセットテープに音声だけ録音して、繰り返し繰り返し聴いたりもした。一年に一回だけの大イベントであるこの番組をいつも心待ちにしていたのである。

僕が最初にこの番組を見たのは第4回大会だったような気がする。まだ参加者も4000人ぐらい(それでも凄い数だ)で、場所も後楽園球場だった。しかし既にこの頃には日テレの看板番組としてそれなりの存在感を誇っていたし、後の黄金期を司る「ウルトラクイズ」を「ウルトラクイズ」足らしめる為のほとんどの要素は兼ね備えつつあった。

まずは何といってもオープニングのテーマ曲である。トランペットがゆったりとしたメロディーを奏でるこの曲は幼い頃の僕には壮大なアメリカ大陸を感じさせるには充分であった。(記憶ではアメリカのTVドラマ「スタートレックのテーマ」をハービー・ハンコックがカバーしたものらしい)。番組で用いられた音楽的な効果については後でも述べる。

第一次予選は後楽園球場での○×クイズ。第一回大会の参加者は500人強だったのが、復活した今年は5万人を超えていた。5万人である。これは恐るべき人数だ。ここでは大体100人+αまで人数が絞られる。

第二次予選は成田空港でのジャンケン対決が定番である。渡米の準備を整えてきた出場者の内、約半分が飛行機さえ乗る事ができない、クイズ番組なのにジャンケンで勝負というのも(その安直さも含め)前代未聞ではあるがこれが名物になってしまうぐらい定着してしまったところは注目に値する。

個人的に好きなのは、敗者の味方、徳光和夫アナ(当時はまだ日テレの局アナ)の存在である。負けた悔しさを表現するがごとく、ヘルメットをかぶった徳光和夫がピコピコハンマーでぶっ叩かれる光景は、それ以上の意味は無いのだが何とも面白い。傑作なのは勝者を乗せた飛行機が飛び立っていくのを尻目に、拡声器を片手に行なう「敗者によるシュプレキコール」である。徳光和夫のユニークさの原点はこの場面に集約されていると思う。

機内では息つく間もなく400問ペーパーテスト。○×クイズ、ジャンケンとどちらかというと「運の良さ」に依存する選考方法が企画色の強いムードが一転、ストイックなクイズの実力主義へとシフトする。基本的には三択問題なのだが400問を運で乗り切るのは難しい。

初のアメリカ上陸地であるサイパンでは、その飛行機を降りる際にペーパーテストの合否を発表するゲート(通称ブーブーゲート)を通らなくてはならない。不合格者はサイパンの地を踏むことなく(この演出もベタではあるが面白い)、そのまま同じ飛行機で日本に帰る事となる。

サイパンでは○×泥んこクイズが定番。二者択一の問題で正しいと思った方のプレートに体当たりする。不正解を選択するとプレートの向こう側には特性の泥んこプールが待ち受けていて、その中に頭から突っ込む事になる(よって泥まみれになる)。ここでも約半分が脱落する。

いつも前半戦はおおよそこんな流れである。長い歴史の中で少しずつカスタマイズされてはきたが、その大きな流れはいつも同じであり、今年の復活においてもそれは同様であった。これがウルトラクイズの「偉大なるマンネリズム」である。

単純に計算すると、ここまででおよそ15人前後まで絞られる。この頃になると、各出場者それぞれの「顔」が見えてくるようになる。名前までは覚えなくても「元気な兄ちゃん」とか「最年長のおじさん」とか「機内テスト第一位」などの、それぞれを見るための記号的要素が明確になる。今までは単純に「大勢の勝者」と「大勢の敗者」という括りだったのがキャラクターが立つことによって結果的に個人戦の様相を呈してくる。つまりキャラクターが立つことによって単なる「クイズ番組」からある種の「人間ドラマ」としての側面を持ってくるのである。これが、ウルトラクイズが他の番組と大きく異なる点である。単純にクイズだけをやる番組だったらここまで支持されることも無かっただろう。

アメリカ大陸を横断しながら、各チェックポイントでユニークなクイズが展開されていく。いろんなクイズ方法の中で最も有名になったのは「バラマキクイズ」だろう。これが無いとどうもウルトラクイズという感じがしない。各ポイントごとに一人減り二人減りしていき、最終チェックポイントであるニューヨークでは最後まで勝ち残った最強の2人が「10問先取の早押しクイズ」という最もシンプルで実力が試される対決を行なう。この決勝戦ほどハイレベルで壮絶な闘いを繰り広げるクイズ番組を僕は知らない。何万人もの出場者の中から勝ち残った者だからこそできる「頂上決戦」なのである。

音楽の話に戻るが、各場面で効果的に挿入される音楽(と効果音)はウルトラクイズにはなくてはならない一要素であると断言する。テーマ曲はもちろんの事、各チェックポイントを紹介するときのBGM、勝ち抜きが決定したとき、罰ゲームのときのテーマ、決勝戦直前の緊張感溢れる場面での音楽、果ては早押しクイズのボタンを押したときの音まで全ての音がウルトラクイズをウルトラクイズ足らしめる重要な役割を担っている。これらが欠けてはその雰囲気が大いに失われてしまうだろう。復活したウルトラクイズの何が嬉しかったって、これらの音楽(と効果音)が昔のままだったということが一番嬉しかった。かつての番組とは若干、規模や内容が変化していたにせよ、これらの音楽が往年のウルトラクイズと全く同じだった事で、ノスタルジーに浸るには充分であった。正に「ウルトラクイズの復活」を実感したのである。

タイトルの「ウルトラクイズは文化である」というのはそのウルトラクイズ独特の雰囲気、空間を「文化」と表現してみたのである。例えば、コミックで言うと「スヌーピーは文化である」と言える。スヌーピー(ピーナッツ)の登場人物には明確な個人の「顔」が見える。おっとりしているチャーリー・ブラウン、少し意地悪なルーシー、知的なシュローダー、毛布を手放せないライナス、愛敬のあるウッドストックなどそれぞれの確固たる「顔」が存在する。読者は「スヌーピー」を読むことで「スヌーピー」という独特の空間、文化にいつの間にか入り込み、またそれを楽しむのである。逆の意味で僕がミッキーマウスにあまり魅力を感じないのは、各キャラクターの「顔」による面白さ(明確な個性)に今ひとつ欠けるからである。

同じ意味で「サザエさんは文化である」、「笑点は文化である」、「水戸黄門は文化である」とも言えるだろう。登場人物の役割が明確に表現されていて、独特の空間(それが仮想的なものであるとしても)を構築しているものは全て該当すると言える。逆に「文化」とは何かという側面から見ると、人(もしくはそれに変わる何か)の存在と人と人とのコミュニケーションによって発生する雰囲気、風潮、空間であり、その流れがある一定の法則、規約に基づいて運営されていく様を指すのでは無いだろうか。クイズ番組でこれを達成したのは僕の知る限り「ウルトラクイズ」だけである。

そういう意味で、個人的には今回の「復活ウルトラクイズ」には満足であったのだが同時に限界も感じたと言わざるを得ない。今、巷で人気のある番組と言えば、中途半端な知名度の芸能人を大勢集めて宴会さながらに大騒ぎする、といった物が圧倒的に多い。レギュラーで放送されている素人参加クイズ番組なんて「アタック25」ぐらいだろう(これほどクイズにストイックな番組も珍しいが・・・)。そんな中、人と人とのコミュニケーションによって発生する雰囲気をエンターティメント(クイズ)として楽しむ姿勢が、この時代にどこまで通用するのか非常に疑問である(非常に残念な事ではあるが)。

ヒッチハイクで大陸を横断するぐらいの奇抜さが無いと駄目なのかなあ。