音楽という魔物(6:A級戦犯)



一般的な日本人はその子どもの頃、理解しやすい子供向けの音楽(童謡もしくはそれ風の楽曲)を耳にしながら成長していく。強いて例を挙げるならチューリップ(咲いた、咲いた〜)や、海(海は広いな大きいな〜)、どんぐりころころ(どんぐりころころごんぐりこ〜)、森のくまさん(ある日森の中〜)、かえるの歌(かえるの歌が聴こえてくるよ〜)などである。これらの曲は概ね長調の明るいメロディー、単純で極めて基本的なコード進行を持つ楽曲群である。小さい頃は音楽性うんぬんを論じるよりも、音楽に接したときの喜び、歌う事の楽しさに触れることが優先されるので、音楽の技巧的な面よりもその理解度、親密度、俗に言う「キャッチー」さが求められる。これについては異論の余地はない。僕も小さい頃は童謡を集めたレコードを昔風の家具調ステレオで擦り切れるまで聴いていた記憶がある。音楽という存在に初めて出会うにはこのぐらいが丁度良いだろう。

幼稚園にはお遊戯の時間がある。具体的にきちんと音楽と接する(意識する)のはこれは初めてになることが多いだろう。一人で聴いたり歌ったりする音楽から皆で歌ったり踊ったりする為の音楽へと対象が変化する。太鼓やトライアングル、ハーモニカなどの初歩的な「楽器」に触れるのもこの頃である。音楽的にはハトポッポ体操(どんな曲かは忘れた)やアイ・アイ(お猿さんだよ〜)などあくまでも「お遊戯向け」に適したの楽曲が増えてくる。歌詞の内容も動物などを擬人化したものが多い。僕も幼稚園のクリスマス会で森の動物を題材にした演劇をやらされ(鹿の役だったと思う)劇の最後に皆で何かの歌を合唱した記憶がある。「音楽=歌って踊るもの=なんだか知らないけど楽しい」という対象に昇華される。

小学校に入ると歴然とした「音楽」という授業がある。6年間もあるのでいろいろ教わることがあるのだろうけれど、僕が最も重要視するものは、低学年では「ハーモニー」を教わる事だと思っている。クラスの半分がメインパートを、もう半分がハモリのパートを同時に歌うことによって初めて「ハーモニー」というものに参加することになる。これにより、異音が同居しても気持ち悪くない音の組み合わせがあるということを知る。コード理論や転調などの音楽的技巧のほとんどはこの「ハーモニー」がなければほとんど無用に長物になるほど重要な存在なので、これは音楽的には大きな転機となる。

高学年では音楽を図式化するための「楽譜」について学ぶ。もちろん初歩的な「ドレミ」を習うに過ぎないわけだがそれまで実際に歌ったり、楽器を使ったりなどして実際に音を出すことによって音楽を伝えていたものが、記号によって伝えることができるという大きなパラダイムシフトを迎えることになる。また、記号(音符)を学ぶ事によってそれに付随する音楽理論のさわりとも言うべき音楽的技巧についても(ほんの少しだが)解説される。曰く「長調の曲は明るい感じ、単調の曲は悲しい感じ」などである。音楽に対して感じていた明るい感じ、悲しい感じがある程度理論化される。

まあ、このあたりまでは良しとしよう。音楽との対面、その楽しさの享受、ハーモニーの存在、音楽の記号化。しかし、しかしである。これ以降の中学、高校などの音楽の授業は基本的にこれ以上「音楽的な内容」には踏み込んで行かないのである。中学、高校の音楽の授業では何枚ものクラシックのレコードを聴かされ、その作曲者と曲名とエピソードを暗記させられる。暗記するのはそれらがテストに出るからである。

楽曲がどんな意味を持つのか、音楽史の中でどのような位置づけがなされているのか、作曲におけるどの部分が画期的で注目に値するのか、この作曲家はどのような作風を持っていてどんな特徴があるのか、などの対象としての音楽的な内容、さらにいうと「音楽を楽しむための知識」についてはまるで享受されない。音楽という箱に付いているラベルの絵柄だけを覚えさせられ、その内容についてはほとんどノータッチなのである。こんな授業をしていたのでは、音楽に対する興味が薄れていくのも当たり前の話でとくに男子生徒はその心の離れかたが棒著である。

中学、高校というのは最も多感な時期とされる。この頃になると、テレビなどから流れてくる音楽をただ受け取っているだけでは空き足らず、自分から音楽を求めるようになる。初めてレコード、CDを購入するのはほとんどの人がこの頃ではないだろうか?また、その多くは日本のポップス作品であるということもある程度想像が付く。新聞、雑誌、テレビなどのメディアで目にしやすい事、小さなレコード店などでも入手しやすいこと、歌詞が日本語であること、(大抵の場合)演奏家のルックスが良い事、などがその理由として挙げられるだろう。ちょっと尖った人だと洋楽(それでもキャッチーな部類に限定されるが)に走ったりもするが、これも歌詞が英語である(だからちょっと格好良い)といった違いぐらいしかなく音楽的にどうこうといった意味はあまりないと思われる。もちろん「結果的に意味があった」ということ時にはあるだろう。ビートルズだってデビューした頃はただのアイドルバンドだと思われていたのだから。しかし、やはりそういった例は極まれな話で、基本的には「お子様向け低レベル音楽」とも言えるものであることが圧倒的に多い。

高度な音楽鑑賞術について何の知識も無いのだから自分が理解できる範囲の音楽しか聴かなくなるのは当たり前と言えば当たり前ではある。どれほど音楽的技巧を凝らした作品であったとしてもその音楽的な美しさが自分の理解能力を越えてしまっている場合、聴き手にとってその美しさは感じることができないし、意味を持たなくなる。また、多くの人に理解されない作品は聴いていてもその楽しみを享受できないので絶対的な需要(売り上げ枚数)に結びつかず市場から淘汰されてしまうことになる。逆に理解できるレベルの「お子様向け低レベル音楽」は嗜好品としての「商品能力」をさらに高める結果となり、市場にあふれる音楽作品の大半(チャートに占める割合)が音楽的には安直な、即戦力的作品になってしまわざるを得ない。

音楽的技巧を凝らした作品の素晴らしさを享受できないのはその素晴らしさの根拠、音楽のツボとも言うべき「技」の素晴らしさを理解できないということが大きな原因になっている。これは明らかに日本の音楽教育における重大な落ち度でありその点ではまさにA級戦犯である。中学、高校という最も多感な時期に、音楽的技巧の面白さを教えるどころか逆にそれに対する興味を潰してしまっているのだ。

作曲を少しでもかじった事のある人ならば分かるだろうが素人が最初に作る曲というのは(正に理解しやすい子供向けの音楽の要に)概ね長調で、基本的なコード進行を持つ「お子様向け低レベル音楽」になる場合が多い。あえて例を挙げるならばZARDやTUBEの楽曲群のような誰にとっても口当たりの良い、簡単に歌う事ができる、音楽的な技巧がそれほど施されていないものである。これらの曲は100人中での平均点は高いが最高点はあまり高くないといった部類の(個人的には)どーでもよい作品である。純粋な「音楽的な楽しさ」はここには無い。こんなものがチャートを独占し、ミリオン単位の売り上げを記録するこの日本という国の音楽的土壌は正に悲惨という言葉に尽きる。個人の作品としてのオリジナリティー、音楽としてのクオリティーは(特にチャートに登場するものの多くは)惨澹たるものがある。最初は「お子様向け低レベル音楽」でも良い。どんな有名な作曲家でも最初は「ドレミ」の使い方から覚えていくのだ。しかし、音楽的表現の可能性に気が付いた者は自らのセンスと音楽的技巧を駆使して最高の音楽を目指しはじめるのは本来の姿ではないだろうか。

それを実証するような例を挙げておこう。今年の後半、B’zのベストアルバムは歴史に残る売り上げ枚数を記録した。その数なんと500万枚とも600万枚とも言われている。世界的に見てもこれはちょっと異常な数で、アメリカ、イギリスのアーチストでもこれだけの枚数を(全世界で)売り上げるアーチストは数えるほどしかいない。しかもB’Zはその枚数の殆どを日本国内のみで達成したのである。ここで冷静に考えてみるとちょっと不思議な対比ができることに気が付く。日本人でなくても大抵の欧米人が知っている「スキヤキ(上を向いて歩こう)」という名曲がある。どう考えてもこの曲は世界的に見たとしても500万枚も売れてはいないはずである。(ひょっとしたら100万枚もいっていない可能性がある)でも逆にこの曲を知っている人はどう考えても世界的に500万人では利かないはずである。さあ、ここで問題。B’Zの曲を知っている人というのは一体どの位いるのだろうか。ひょっとして500万枚売れた作品なのにその曲を知っている人が500万人しかいないのではないだろうかという大いなる疑問が湧いてくる。ポピュラーミュージックというカテゴリーの中で何か不思議な事が起こっているのではという思いをどうしても否定できない。

今の時代というものが「如何に消費するか」という部分を重要視する傾向にも原因があるのかもしれない。以前友人が「セブンイレブンの漬物は美味い」という話をしていたのを聞いた事がある。これはつまり「***のコンビニの漬物は美味いが***のコンビニの漬物は美味しくない」といった明確な「漬け物の美味しさ」についての比較論である。僕は直感的にこの話題の奇妙さに気が付き、あからさまに嫌悪感を露にした記憶がある。もちろんコンビニで販売されてる漬物を比較すれば、その味にそれなりの差が出るのかもしれない。しかし僕に言わせればコンビニの漬物はあくまで漬物としての「記号」であり、それ以上でもそれ以下でも無い。本当の意味で「美味しい漬物」を食べたければ、しかるべき場所で入手すれば良い訳で、その区分けをごっちゃにした挙げ句「漬け物の美味しさい」を判断するなど論外だと思ったのである。僕の嫌悪感は「コンビニの漬物」という主題で「漬物の美味しさ」について論じようとするその姿勢に今の時代における「如何に消費するか」という風潮を察知して反射的にそれを排しようとした結果だったのだろう。今でもその考え方が間違っているとは思わない。

以前、坂本龍一氏がインタビューでこんな発言をしている。

「モーツァルトの時代には、作曲家は貴族のために作っていたわけですね。貴族というのは、ある程度音楽教育もされていて、自分で楽器をできるひともたくさんいたし、日本で言えば和歌を書くようなことです。そういう観衆が相手だった。ところが、20世紀というのは音楽教育をほとんど受けていない大衆が貴族に取って代わって、作曲家はそこに向けて書いているわけで、相手のレベルが非常に低い。だから低レベルの音楽が売れるのは当たり前って思っているんです。」「だから「高級なものをもう少しなんとかしてよ」という気分をマス・マーケットに求めること自体が間違っているのかなと。だから僕の音楽は売れちゃいけないんです。僕の音楽が売れたら、僕の音楽の質が下がったということなんです。」

これは上記に述べた事柄を坂本氏も同じように実感しているからではないだろうか?高飛車な意見に聞こえるかもしれないが、これは音楽人である以前に(音楽後進国である)日本人であるというトラウマを抱えつつ世界の舞台で闘ってきた人間の強烈な皮肉とあきらめの態度なのである。