名もなき詩



 音楽と向き合うという姿勢に於いて、個人的にはその歌詞の存在はどうでも良いものであるという位置付けであった。どうでも良いというのは言い過ぎかも知れないが音楽とは音と音の繋がり、そしてその関係や構成、全体から醸し出される雰囲気とかイメージこそが重要であると思っていたので、それに付随している歌詞はほとんど注目していなかった。洋楽にのめり込んでいた時期に友人から「洋楽って英語だから何を歌っている分からない(から聴かない)」と良く言われた。僕に言わせれば「歌詞なんか分からなくたって別に構わない」ということになる。音楽とは「音」こそが重要なのであって、ボーカルはあくまでその音群の一要素。歌詞は音楽が作り出すイメージの補完的な役割を果たせれば関の山であると思っていた。しかし実際問題として「ビートルズ」から「モーニング娘。」まで現在ポピュラーな音楽(店頭で売られている、チャートに入る)はその殆どにボーカルがあり歌詞がある。良く言えばそれらは音楽が伝えようとしているイメージをより明確にするための手段なのかもしれないが、個人的にその音楽の善し悪しを決める基準としてはあってもなくてもどうでも良い物であった。もちろんポップスの長い歴史の中において「詞」を「詩」として解釈してもクォリティーの高い作品も少なからず存在する。ジョン・レノンの作品には詩集にしても見劣りしない物が多くあるし、ボブ・ディランやルー・リードなんかもそういうものが多く存在するのであろう(後者は個人的にあまり良く知らないので想像だが・・・)。

 ただ、おおむね僕が感じているのは「歌詞は音楽の主役にはなり得ない」ということである。もうちょっと突っ込んで言うと「歌詞による主張を全面に出している音楽にはろくなものがない」ということになるだろうか。いわゆる「歌詞で主張する」作品から歌詞を排除する(つまりインストにしてみる)と純粋な音楽としての力がそのくらい内在しているのかがは明確になる。果たして音楽(音)だけで一人立ちできる作品はどれほどあるのだろうか?以前スーパーマーケットで買い物をしているときに、店内放送でTRFの「ボーイ・ミーツ・ガール」のインスト版が流されていた。店内放送なのでご想像通りオリジナルよりも格段にソフトなアレンジが施されていたのだが、それはそれは聴くに耐えない代物であった。オリジナルが聴くに耐えうるものかどうかという議論はさておいて、音楽それ自体の力を持ち得ない作品は、ボーカル)(歌詞)を差し引いてインストにした場合、とたんに聴けない物になり果ててしまう。音楽とはそういうものなのだ。

 歌詞が主役になり得ないからといって、活躍の場がまるで無いというわけでもない。先に述べたように音楽が表現しているイメージの補完的役割として最善を尽くすことは可能である。つまり「名脇役」になれば良いのだ。分かりやすい例で言うとエリック・クラプトンの「チェンジ・ザ・ワールド」は音楽だけでもその繊細でちょっと悲しげなイメージは十分に伝わるしそれなりに素晴らしい作品であると思う。しかしそのメロディーに付けられた歌詞がなかなかの名脇役を演じている好例といえる。なんの取り柄もない男が愛する人への気持ちを「もし僕が星にたどりついたら、君もそこへ引き上げてあげよう」という歌詞でちょっと切なくてロマンチックな曲の雰囲気をもりたてるのに一役買っている。音楽の構成要素(音、メロディー、構成、歌詞など)のそれぞれの力が複合的に発揮された場合に、その作品は本当に素晴らしいものになる。実際、時代を超える名曲と呼ばれる物はそういう作品が多い。しかし、その域に達する作品は非常にまれであることは間違いない。音楽それ自体に力がなければ歌詞は全く意味が無いからである。

 そんなこともあり、それが洋楽だろうが邦楽だろうが、クラシックでもジャズでも純粋に音楽としての核心的な部分(メロディーと構成)がしっかりしていない物については個人的にはどうでも良い存在であった。本当に素晴らしい音楽はオーケストラで演奏しても鼻歌で歌ってもその輝きを失わない物なのである。だから歌詞があろうと無かろうとそんなことは音楽を聴く上ではそれほど重要なことでは無いのだ。それが証拠に歌詞に惹かれてその作品が好きになったとか感動したとか、そういう経験は個人的には全く無かった。まわりの友達が「この曲いいんだよ!」といって聴かせてくれるもの(特にに邦楽の場合)は、その歌詞に関しての評価、思い入れである場合が多く僕がその気持ちを共有できたことはほとんど無かった。TUBEやハウンドドッグ、長渕剛なんか聴かされても困るのだ。

 Mr.Children(以下ミスチル)がデビューしたのはいつの頃だっただろうか。今では信じられないのだが、デビュー当時はピチカート・ファイブやラブ・タンバリンズ、フリッパーズ・ギターなどのいわゆる「渋谷系」という枠で括られ語られることが多かった。「おっしゃれ〜っ!」ってやつである。僕はその「渋谷系」(の確信犯的なスタイル)に一時期凝っていたのだが、そんな中でもミスチルの存在に「なんかちょっと違う」という印象をもっていた。意味的な「おしゃれ」を演じていた他の「渋谷系」と違ってミスチルはごく普通のバンドにしか見えなかったのだ。だから注目もしなかったし、聴くことも無かった。

 「イノセント・ワールド」で大ブレイクしたのはそれから間もなくであった。この頃には完全に僕の趣味とは違うバンドであるという認識が僕の中では定着していたので「ふ〜ん、ミスチル。売れてるねえ〜」って感じであった。それからも「Tomorrow Never Knows」や「Everybody gose」、「シーソーゲーム」などのヒット量産体制が続いたが僕はなんとも思わなかった。はっきり言ってミスチルなんてどうでもよかったのである。

 そんな中、「名もなき詩」が発表された。このタイトルを最初に見たときは「おおげさだなあ(笑)」という印象を受けた。なんだかドラマチックすぎて恥ずかしいと思ったのである。音楽という表現形態において、言葉による主張の有効性をまるで認めていなかった僕にとっては、鼻で笑うには格好の対象だったわけだ。口当たりの良い売れ先の曲をさんざん発表しておいて今更何?、という感じだった。そんなこともあり、発表当時はまるで聴く耳を持たなかった。この曲をきちんと聴いたのはそれから数ヶ月たってからのことである。なぜ、あえて聴くことにしたのかというと、最初は鼻で笑っていたタイトルの「名もなき詩」という大げさな表現が、なぜか頭から離れず、気になって仕方がなかったのである。ひょっとしたら何かあるのかも、という予感がしたのだ。で、シングルを購入して(邦楽のシングルなんて殆ど買ったことがなかった)初めてきちんと聴いてみたのである。

ちょっとぐらいの汚れ物ならば残さずに全部食べてやる

 出だしからちょっと普通では無いことに気が付いた。それは口当たりが良いだけのお気楽バンドならば決して用いることがない表現方法だったからだ。参考までに上記の表現をいわゆる「どうでも良いバンド」風に書き直すならこうである。

君の心の悲しみや痛みは僕が癒してあげるさ

 自分で書いていても非常にこっ恥ずかしいのだが(笑)、こんな感じの思想もセンスの欠片もない陳腐でおバカな歌詞になるはずである。しかし「名もなき詩」はそうでは無かった。これはどうしたことか? ミスチルに対するそれまでの認識に疑問を感じ始めていた。この時点ですでに「おやっ?」と思ったのだが、聴き進めていくうちに普通でない表現が次々と登場してきた。

君が僕を疑っているのならこの喉を切ってくれてやる・・・
こんな不調和な暮らしの中でたまに情緒不安定になるだろう・・・
君の仕草が滑稽なほど優しい気持ちになれるんだよ・・・

 この曲は今までのミスチルやその他の巷の曲とはあきらかに一線を画している、そう確信し始めていた。自分を飾ろうとしない直接的で乱暴な表現に僕は徐々に飲み込まれていったのだった。

 この頃の僕はいろんなことに対してうんざりしていた時期である。納得のいかない仕事の進め方、恋愛も含めた複雑な人間関係。このままではダメだということは分かっているのにどうすれば良いのかわからないというパラドックス的な深い感情に苛まれていた。世の中、どんなに最善をつくしても、どうすることもできないということは確実に存在する。そんな当たり前のことを嫌と言うほど再認識していた時期であった。その頃の事を思い出しただけでも、怒りとも悲しみともつかない混沌とした感情が蘇ってくる。そして今でもその気持ちは脈々と続いている。いろんな事に対する絶望、不安、あきらめ。それに対する解決方法は無く、ただただ時間が過ぎていくのをじっと堪え忍ぶ。そしてそんな自分の存在に対する疑問、怒り、悲しみ。考えれば考えるほど自分ではどうしようもないことだけが明確になっていく。それが世の中というものだ、と割り切れる人がどんなにうらやましいと思ったことだろうか。肉体的にも精神的にも極限まで疲れ果てていたのである。そして「名もなき詩」はそんな僕にとどめの一撃をあたえることになる。

人を思いやりゃあだになり自分の胸につきささる

 この人(桜井和寿)は僕と同じような事を考えているのではないだろうか?そんなことを強く感じ始めていた。音楽に対して「感情移入する」ということが良く言われる。これはつまり曲(主に歌詞)を聴いて「うんうん、その気持ちよくわかるよ」というものである。先にも述べたように、僕にはそういう経験がまるで無かったし、そういう姿勢を嫌っていた。愛だの恋だの好きだの嫌いだの言ってるくだらない歌詞にはうんざりしていたからだ。

 しかし、今回は違った。明らかに「歌詞」に感情を動かされているのである。厳密には僕がこの曲の歌詞に「感情移入」をしたのではなく、自分の気持ちとリンクする部分、言葉ではなかなか表現しにくいような部分をズバッと核心的に突かれたような気がしたので「びっくりした」のである。音楽が音と音の繋がりによってそのイメージを構築するようにこの「名もなき詩」の歌詞は言葉と言葉の繋がりによってある種の「言葉にできない」イメージを作り出しているように感じたのだ。そしてそのイメージが僕の抱いていた絶望的なイメージと驚くほど一致していたのである。つまり僕は歌詞の通りに「君が僕を疑っているのならこの喉を気ってくれてやる」と思っている訳ではないということである。喉をきってくれてやろうなんて気持ちはさらさら無い。歌詞そのものが意味していることでは無く、それが作り上げているイメージ全体に対して強烈なシンパシーを感じたということである。

あるがままの心で生きようと願うから
人はまた傷ついてい
知らぬ間に築いていた自分らしさの檻の中で
もがいているなら誰だってそう
僕だってそうなんだ

 いろいろと思い詰めていた感情の足下をすくわれたような気持ちになった。「絶望的だけれどもそれでも前に進んで行かなくてはならない」という屈辱的ではあるが当たり前の事実を突きつけられたかのごとく、突き放されたような、解放されたような何とも言えない気持ちになった。この人は何を思って、そして何故こんな歌詞を書いたのだろうか?ミスチルという存在、桜井和寿という人、そして「名もなき詩」は僕にとって特別な存在になっていった。

人に対する思いは、その対象となる人の反応によって左右されるべき物ではない。レスポンスがあろうとも無かろうとも、それが本当に心からの思いなのであればいつまでも注がれるべきである。その思いが例え絶望的な中に置かれたとしてもその気持ちはいつまでも心に抱きつつ、凛としてさらに前に進んでいくしかない。辛く悲しいことではあるがそれが現実である。ちょっとやそっとで心変わりしてしまうのであればその気持ちはその程度の物に過ぎなかったということに他ならない。それは真実の気持ちでは無いとういうことだ。この「名もなき詩」はそういうこと(イメージ)を一歩間違えば陳腐な表現になりそうなぎりぎりのところで綴っている。少なくとも僕にとってはそういうに感じることができたのである。

 その後、ミスチルは「花」や「Everything」といった同じような主題を扱った曲を次々と発表していく。そして突然の活動休止宣言。休止直前の最後のロングインタビューということで「Rock’in on Japan」に桜井和寿との対談が掲載されていた。この人が何を考えていたのかを知る(僕にとっては)興味深い内容であった。売れっ子バンドの憂鬱や休止に至るまでの契機が率直な表現で語られていたのだが、その最後に「活動休止に際してこれからどうするんですか?」という質問に対する回答があった。

将来の事を考えるより、今日を必死に生きていくことで精一杯

 この文章だけを見ると少し恥ずかしい表現だが、「名もなき詩」で僕が感じたことと照らし合わせると、非常に納得のいく素直な気持ちであると感じたこの人は格好を付けているのでも演出しているのでもなく本当にそう思っているのだということが痛いほど伝わってきた。世の中の全ては計画通りにいくどころか、そのほとんどは自分の思う通りにはならない。ささやかな願いでさえも踏みにじられてしまうような絶望的な存在の中にあってそれでも、前へ進むしかない、そして進んでいくんだ、という決意にも似た強い気持ちは、やはり僕の思いと驚くほどリンクする部分があった。「そうするしかない」という気持ちである。

 「名もなき詩」は最後の最後に究極的な愛情の形(の回答としての一例)と、「そうするしかない」という絶望的な孤独感を象徴的に提示し、その終演を迎える。

愛情ってゆう形のないもの
伝えるのはいつも困難だね
だからdarlin この「名もなき詩」を
いつまでも君に捧ぐ