ケータイっていったい・・・



私は告白する

以前からそうなんじゃないかなあ、となんとなくは思っていた。でもそれは単純に僕自身がこの新しい環境に慣れていないだけなんだろうと自分に言い聞かせてきた。時間が経つにつれて、ありふれた日常の風景にすっかり溶け込んでしまい、今ある違和感は徐々に色褪せていくはずだと。しかし、そんなことを思い始めてから早数年、その違和感は薄らぐどころか、却って増してきているのように感じる。やはり何かがおかしい。よくよく考えてみれば些細なことなのかもしれないが、どうしても気になってしまう。それも場合によっては「気になる」と言うよりも「気に障る」と表現したくなるような場合さえある。とにもかくにも、それが「当たり前の事」として受け入れる事がどうしてもできないでいる。こんな事を言ったら馬鹿にされると思ったので今までずっと黙っていたがここであえて、その気持ちをぶちまけることにする。僕が数年前からずっと持ち続けていた違和感、それは

ケータイって格好悪くないか?

ってことである(あ〜あ、言っちゃったよ)。

確かに携帯電話(以下ケータイ)は便利だ。人との待ち合せや緊急時の連絡など、その効力は絶大である。なんといっても、離れた場所(具体的にどこにいるのかが分からなくても良い)の人と直接話せちゃうんだからこれ以上のものは無いだろう。現に僕もケータイを保有している。周りの友人にとにかくケータイを買えと熱心に薦められた結果である。個人的にはあっても無くても構わないと思っていたので折角だからということで購入したまでである。当時も今もケータイを持たねば、といった積極的な理由は全然無い。

実況中継

一昨年の正月、友人たちと北海道へスキーに行った。皆さんは覚えているだろうか?記録的な大雪が関東を直撃し、完全に都市機能を麻痺させたあの年の正月である。この日、僕らの予定では深夜に友人宅に車で集合、そこで仮眠を取り、そのまま空港へ直行することになっていた。集合場所の友人宅は、普段なら車で30分ぐらいで到着する。しかしこの日だけは違った。あまりの大雪のために道路の途中で立ち往生する車が続出、主要幹線道路は大渋滞(というか動かない状態)になっていた。数メートル動いては止まり、また少し動いては止まりという状況が延々と繰り返され(歩いた方が圧倒的に速かったはずである)、結局、友人宅に到着するまで6時間以上もかかったのである。当然、予定は大幅に狂い、仮眠など取る暇もなく、すぐさま空港へ直行した。しかしながら、空港までの道もいつものようには進まず、危うく飛行機に乗り遅れるところであった(なぜかこの時点では飛行機は平常通り運行していた。空港が大混乱になるまでにはまだ時間が合ったのだ)。

しかし、空港でもう一人の友人と落ち合う事になっていたのだが、この友人は飛行機の時間までに空港にたどり着く事ができなかった。始発電車に乗ったにもかかわらずである(既に電車の運行は麻痺していた)。彼一人だけが東京に残される状態になっってしまったのである。とりあえず、この飛行機に乗らないわけには行かなかったので僕らだけ先に北海道へ出発する事にした。大雪なのは関東地方だけで、そこを過ぎると空はすっかり晴れ渡っていた。北海道に到着したときには暖かいと感じたぐらいである。しかしながら乗り遅れた彼はまだ東京にいた。

数年前なら、このようなアクシデントで離れ離れになってしまった場合、相手が今どこにいて、どういう状況になっているかがわからない場合に個人的に連絡を取る事は不可能だったであろう。万が一、一時的に連絡が取れたとしても、それはその場限りのものでしかなく、刻々と移り変わる状況の中ではほとんど役に立たないだろう。待ち合わせ場所などを連絡しておくことがせいぜいだろう。

しかし、僕らは全員ケータイを持っていた。さっそくケータイで連絡を取ってみると、なんとか臨時便の予約が取れたということだったのでとりあえず一安心。僕らは(お先に失礼して)スキー場へ向かう事にした。もし、ケータイが無かったらいつ来るかも分からない友人を 千歳空港のロビーでじっと待ち続けなければならなかっただろう。このときは心から「世の中便利になったなあ」と思った。その後、彼からは逐一連絡が入り、だんだんと僕らのいるところへ近づいてくる様子はまるで実況中継のような迫力があり非常に面白い体験であった(結局出会えたのは日も暮れた後だったが)。

ケータイのある生活

ケータイに限らず電話とは本来「離れた場所にいる人とコンタクトを取る」という特別な目的のためのものである。これは間違い無い。しかしその存在がどんどん身近な物になり、一人一台の時代になってくると本来の「特別な目的」という大前提が崩れ、電話を通じて話すと言う事が取りたてて珍しい事では無くなってきた。つまり、あんまり大事にされなくなってきたとういうことである。特にこれといって用事が無いときでも、すぐに電話をかける。まるで話している相手が隣に座っているような感覚でこれといった内容の無い、どうでもいい話を延々と続ける。それがケータイになるとさらに「どこにいても捕まる」というおまけも付くのでこの傾向はさらに酷くなっていくばかりだ。

電話が鳴るとそれまでの時間の流れが問答無用で遮断され、電話に出ることが優先される場合が圧倒的に多い。人と話をしている最中にケータイが鳴り、それまでの会話が中断された、という経験は誰しもお持ちであろう。電話はその誕生の時から、唐突に日常生活の流れを中断する性質を持っていた。以前はそれが家の中だけだったが、今ではそんな状況が町中にあふれているのだ。ただでさえ僕は、何かをやっているときに邪魔が入ると非常に頭に来る。飛び込みの用件がより重要な事柄なのであればまだ良いのだが、くだらない、どうでもいい、今でなくてもいい、といったような事柄が割り込んできた場合は非常に気分が悪い。語弊があるかもしれないが、巷でケータイを使って話している人のほとんどはそんな「くだらない、どうでもいい、今でなくてもいい」話をしているのではないか?「その電話、本当に今かける必要があるんですか?」と聞いてまわってみたくなるほどである。今、どうしても、ケータイを使ってまでも連絡を取らなければならない内容なのか?

また、人と話している時にケータイの端末をチェックするというもの、どうも気になって仕方が無い。留守電に何か入っていないかどうかを確かめているのだけなのだろうがあなたの前にいる僕はいったいなんなの?という気持ちにさせられる。ケータイを持っているということを意識しすぎているのではないだろうか?元々、呼び出される物であるはずのケータイが呼び出しが無いかを頻繁にチェックするという、まるで逆の物になってしまっている。

もちろん町中でケータイを使うなといっている訳ではない。それでは「どこでも捕まる」というケータイの意味が無くなってしまう。ただ僕が言いたいのは「町中で一人でしゃべっている」って言う姿は、ものすごく格好悪いんじゃないの?ってことである。

例えば、町中でただひとり、大声でしゃべり続ける人がいたとしたらどう感じるだろうか?ほとんどの人には奇異に映ることだろう。しかしこれがケータイ片手にしゃべっていると、なんだか許されてしまうらしいのだ。これが僕には分からない。本人は楽しい会話がはずんでいるのかもしれないが、こちらにはその片方の声しか聞こえないわけでただただひたすら「変なの・・・」と思うしかないわけである。気のせいかも知れないが、そうやって「俺、ケータイ使ってんだぜ〜」てな感じで堂々とケータイ使うということがある種ステータスになってるのかもしれない。その証拠に恥ずかしそうにケータイに話している人はほとんど見かけない。酷いのになると大声でケータイを使いながら町を闊歩している人がいる。そんな「歩きながらケータイ」な人が向こうからものすごい勢いでこちらに迫ってくる様子を想像して欲しい。これはかなり異様だ。だって恐いんだもの(笑)。少なくともあれだけは何とかして欲しい。

電話で話すと声が大きくなりがちだが、これが屋外になるとなおさらである。方耳をふさぐながら大声で「えーっ?なにーっ?いまどこなの?」っていうような光景を誰しもが見たことがあるはずである。人前ででかい声張り上げて、はっきり言って馬鹿みたいである。そもそも、それほどまでして「人と繋がっていたい」という気持ちが僕にはさっぱり理解できない。要は何が言いたいのかと言うと、ケータイ使うのは構わないけど、

「もうちょっと恥ずかしそうに使ってよ」

ってことなのである。今はマイクの性能が向上しているから、そんなでかい声で話さなくても充分聞こえますって!(笑)。

人命にかかわる事

ケータイについてもう一つ思った事がある。ここ最近、各鉄道会社が電車内での携帯電話の使用を禁止しようとする動きがある。これはこれで「禁止である」ということを明確にするということで別に不満は無い(全然効果はないようだが・・・)。これは「車内禁煙」と同じ発想と考えてよいだろうしかしながら気になったのはケータイを禁止にしたその理由である。「他のお客様のご迷惑となる」というのはわかる。しかし「心臓などのペースメーカーに悪影響を及ぼす恐れがある」っていうのは一体全体何を言わんとしているのだろうか?

まるで脅迫である。

いくらなんでも「人の命が掛かってるんですよ、だから止めましょう」てのはちょっと表現として行き過ぎではないだろうか?単純に「人に迷惑かけないようにしましょう」というキャッチフレーズでは効果が期待できないというのはわかる(現に今でもほとんど効果は上がっていないのだから)。でもだからといって「心臓などのペースメーカーに悪影響」ってそんな物々しい理由付けをしなければいけないほどのことなんだろうか? おまけに「可能性がある」ってのもはっきりしない表現である。可能性があるのか無いのか、はっきりしないのであればきちんと検証するべきだ。それを「可能性」というあいまいな言葉と一緒に「人命に悪影響」なんて言うのはあまりにも短絡的すぎないだろうか?パソコンやCDウォークマンなんかは問題無いのか?(飛行機の計器類に影響が出るほどの電磁波を出すんじゃなかったっけか・・・) それに駅の自動改札ってものすごい電波(?)を出していると思うのだが、あれは大丈夫なのか?ラジオを聴きながら自動改札を通過すると、ただでさえ体に悪いんじゃないかと思うほどに電波が乱れるのだが、あれは人命に悪影響を与え無いんでしょうか?

先に述べたように僕も携帯電話を持っている。しかし自分からかける事はほとんど無い。また、番号を教えている人はごくわずかなので、掛かってくる事もまれである。なので、はっきり言って携帯電話が無くても平気である。なんで持ってるんだろ?

ケータイっていったい・・・

おまけ

余談だけど「ケータイ」って「携帯電話」の「携帯」の部分のことだよね。もちろんこの「携帯」っていうのは「持ち運ぶ」って意味。つまり「携帯」というのはあくまで修飾語であって、これだけだは全く電話というニュアンスを含まない(携帯トイレの事を「ケータイ」って言わないでしょ?)。だからよくよく考えると「ケータイに電話してね」っていう表現は何か妙だ、って思うのは多分僕だけなんだろうなあ。まあ、「スーパーマーケット」を「スーパー」って言うからアリかもね(笑)。