不滅の恋



(サリンジャー風に)

 いったいどうしちゃったんだろう?えっ、何のことだって?もちろん彼のことさ。ほら見てごらんよ。また憂鬱期に入ってるみたいだよ。そうだね、わかんないかもね。確かに見た目はいつもと変わらないよ。でも僕にはわかるんだ。彼に何かとっても辛いことがあったってことが。

 そうそう、これが初めてってわけじゃじゃない。以前にもこういうことはあった。でも、もうずいぶん前の話だね。彼はめったなことではへこたれないタイプだからそう頻繁にあることじゃないんだ。でも、何年かに一回ぐらいはあんなふうに落ち込んじゃ事があるんだよ。僕なんかはもう慣れっ子だけどね。そりゃね、最初は戸惑ったよ。ある日突然、まるでこの世の終わりかとでもいうようなすごい落ちこみようじゃない。放っておいたら自殺でもするんじゃないかってぐらい、本当もう「真っ暗」って感じ。そりゃもうものすごく心配したさ。でも、彼は決してその理由を言わないんだ。

 誰かさんみたいに「話すつもりは無かったんだけど・・・」とか言いながら本当は誰かに話したくてしかたないっていうような奴いるじゃない。自分の辛かったこと(大抵たいしたことじゃないんだけど)をまるで自慢してるかのようにぺらぺらとしゃべっちゃう奴。まいっちゃうんだよね、そういうのって。

 確かに悲しいことがあって、それで落ちこんでいるときって誰かにそのことを伝えたくなるんだよ。その気持ちはすごく良くわかる。僕だって落ち込んだときはそういう気持ちになるもの。胸の中にあるもやもやモヤモヤしたものを誰かに話すだけでもずいぶん楽になるもんね。でも、それを聞かされる方ってのは相談する側よりも真剣になっちゃうんだよ。特に恋の悩みなんか相談されたりしたときは、もう黙って聞いてあげることしかできないって感じ。何か余計な助言を与えちゃったりしたら、自分が後悔することになっちゃう。

 えっ?冷たい奴だなあって? だってかわいそうだなあって本当に思うからこそ、その発言には慎重になっちゃうんだよ。軽々しく「まあ元気出せよ・・」なんて言えないよ。そんなことで簡単に立ち直るぐらいだったら落ちこんだりしないって。

 もちろん相談してくれるっていうのは、僕のことを信頼してくれてるってことだから、そりゃとっても嬉しいことだよ。彼のために心から力になってあげたいと思う。本当、何でもするよ。でも僕には話を聞いてあげることしかできないんだもの。これがすごく辛い。誰かがものすごく悩んでいて、その力になってあげられないってのは本当に辛いことだよ。

ひょっとしたら一番辛いことかもね。

 その点、彼はそういうことが分かってるのかもしれない。相談して何とかなるって訳でも無いってことが。口の悪い奴なんかは彼のことを「秘密主義」なんて言ってからかってるけど僕にはそうじゃないってことが分かる気がする。「人に話すようなことじゃない」ってね。

 彼って大人っぽくてしっかりしてそうに見えるじゃない。まあ確かに彼はかなりしっかりしてる方なんだけどさ。そのことを本人に言ったら「こまっちゃうんだよね」って苦笑いしてたっけ。そんなこともあってか彼自身、人から相談されるってことが多いみたい。まあ僕らの年代だったらやっぱり恋の悩みだよね、一番多いのは。そんな人たちにとっての彼は優秀な恋愛相談員って感じかな。完全に聞き役に徹していて、余計な助言はしないんだ。唯一、彼が言うことは「時がすべてを解決してくれる」ってこと。心の傷は時間が癒してくれるから、それをじっと待つしかないんだよね。彼の気持ちってよくわかる。だから彼は誰にも相談したりしないんだよ。

 彼が落ち込んでいるようには見えないって? そりゃそうさ、彼は自分が落ち込んでいるってことを巧みに隠してるんだもの。普通は落ち込んだりすると焼けになったりしてさ、たくさん買い物したり、たくさん食べたりするじゃない。辛い気持ちを忘れるために普段と違った何かをことをする。よく言うところのストレス解消法ってのに近いのかな。でも彼はそんなことさえしないんだ。いつも以上にいつも通り。悲壮感なんて全然感じないでしょ。逆に「今日は機嫌がいいのかな」って思っちゃうぐらいだよ。ちょっとやそっとじゃ絶対に分からないよ。その演技力たるやオスカーものだね。

 単純に彼のことをクールな人って片づけてもらっちゃ困るなあ。感情を露にしないってのとクールってのは全然違うんだよ。クールな人ってのは感情それ自体があんまり発生しない人の事。うれしいとか悲しいの起伏が少ない人のこと。感情が起こらないんだからそれを露にすることも無いわけで・・・そういう意味では彼は全然「クールな人」では無いんだ。彼ほど感情の起伏が激しい人を僕は知らないね。すぐかっとなるし、ちょっとしたことで感動したりする。まるで子どもみたいだよ。うれしいときには素直にうれしいって顔をする。そういう気持ちって分かち合わないともったいないし、うれしい顔をされて嫌な人はいないでしょ。でも感情の陰の部分、つまり怒りとか悲しみの感情なんかは巧みに隠しちゃうんだ。彼が怒鳴り散らしてたり泣き喚いてたりっての見たことないでしょ。それは頭に来たり悲しくなったりしていないってことじゃないんだ。そういう感情は人一倍感じているはず。でも、人前では絶対に露にしないんだ、絶対に。

 一度だけ彼が猛烈に頭に来ている場面に出くわしたことがあるんだけど、その時もやっぱり感情を爆発させたりはしなかった。あまりに落ち着いていたので、その落ち着きぶりの方が逆に恐かった位だよ。あとで彼と話したら「怒ってるの分かっちゃった?」と笑っていた。彼は思慮深い性格だから、考えに考えた末での行動だと思うんだ。そうじゃなかったらあんな芸当できっこない。自分の感情をコントロールしようだなんてものすごいエネルギーだよ。感情の起伏が大きいほど、感情を隠すのは辛いはずなんだけどね。

 でも、今は彼でさえ太刀打ちできないくらいの巨大な何かにぶち当たっているんだ。さすがに完全には隠し通せなかったってことかな。僕にはその許容量を超えたわずかな分しか見えないんだけどその奥には計り知れないくらい辛い思いが隠されているんだよ。彼との付き合いが長いからなんとなく分かるようになったんだけどさ。

 彼のそんなところって凄いなあって思うけど、これってちょっと寂しいことなのかもね。確かに僕は彼の話を聞いてあげることしかできないのかもしれない。でも、それだけでもいいんじゃないのかな。話すことで嬉しい気持ちだけじゃなく、悲しい気持ちも共有すればいいんだ。答えを出すのと同じぐらいに気持ちを共有するってのは大事なことだよ。彼の気丈な姿は立派だけど、もうちょっと気楽に構えた方がいいと思うんだけどなあ。まあ、彼は僕がこんな事を考えてるって事さえお見通しなんだろうけどね。

でも、やっぱり何でも話せる友達ってのは必要だよ。そう、何でもね。

 ちょっと話はそれるんだけど、「不滅の恋 ベートーベン」って映画を見たんだ。ベートーベンの遺言書に「すべての財産を僕の不滅の恋人に捧げる」と記されていて、その「不滅の恋人」を探す過程で彼の人生を描くというような内容。はっきり言って映画自体はどうでもいいような感じだったんだけど、タイトルの「不滅の恋」ってのがインパクトあるよね。「永遠」ではなくて「不滅」ってところがさ。ベートベンは生涯、その不滅の恋人と結ばれることはなく、そしてその思いを誰にも知られることは無かったんだ。この映画を見終わったときに、さっきの彼のことを思いだした。彼は確かにピアノを演奏するけど、別にベートベンのような堅物って感じじゃない。むしろそpの逆だよね。それよりも「不滅の恋」っていうその言葉の響きというか印象そのものが今の彼の姿とダブるんだ。強くて、純粋で、頑なで、でも悲しくて、破滅的で・・・いつの時代もそういういうのって報われないのかなあ。正に「苦悩」って言葉は彼に為にあるようなものだよ。

難しいよね、人の思いを伝えるってのは。