音楽という魔物(5:クールの誕生)



 僕が中学生の丁度その頃、アメリカではMTVが市民権を得始め、プロモーションビデオ、今で言うところのビデオクリップが日本でも頻繁にオン・エアーされるようになった。マイケル・ジャクソンを筆頭にデュラン・デュラン、カルチャー・クラブなどの正に真の意味での「ビジュアル系」と言えるアーチストがチャートの上位を独占していた。ビデオクリップの善し悪しでチャート・インするかしないかが決まると言っても過言ではないほどに、とにかく次から次ぎへと新しいビデオが制作され、そして放映されていった。

 その中でもやはり群を抜いていたのはマイケル・ジャクソンその人だろう。テレビ朝日で「スリラーのビデオクリップをノーカットで放送する」ということだけで宣伝材料になったほど話題になっていたのである。グラミー賞で9部門を独占したのもこの年である。 普段、洋楽など聴かない子供やお年世りまでも巻き込んだ「マイケル旋風」であった。

 僕が初めて自分のお金でレコードを「購入」したのはこれよりも少し先の話になる。なぜ「購入」が先の話かというと、それはこの頃すでに貸しレコード屋という職業が存在していたからに他ならない。その記念すべき第一枚目がもちろんマイケル・ジャクソンのスリラーであったことは言うまでもない。洋楽なんて全く聴いたことがなかった僕でさえ「借りよう」と思ったぐらいに、その登場には強烈な何か強烈なインパクトのようなものがあったのだ。一枚300円位だったと記憶しているが、今と違って中学生はお金を持っていなかった時代である。レコードを借りてきて、電気屋でカセットテープ(ソニーのHF−Sが多かった)を買って、家に帰ってそそくさとダビングするのである(それから十数年後、中学生が携帯電話を持ち歩くようになるとは想像だにしなかった)。ここから貸しレコード屋へ通う日々が続くのだが、このことがそれ以降の僕の人生に少なからず影響を与えることになったのは言うまでもない。

 いつの時代でもそうだと思うのだが、中学生にはスポーツに燃えている熱血漢タイプと冷めた感じで大人ぶって見せたいクールなタイプが存在する(特に男子に某緒)。前者はTシャツの袖を肩まで捲り上げて(これを格好良いと思うかどうかで決まる)、キャプテン翼よろしくサッカーボールを追い回している。後者は用もないのに下校時刻まで学校の一室(放送室など)にたむろして、大人びた(しかしとりとめのない)会話をいつまでも続けている。僕はどちらかというと後者の方に属していたような気がする。(スヌーピーのジョー・クールのように)クールを気取った男女数人が放課後になると訳もなく放送室に集まり、永遠に結論など出そうもない討論(もどき)に花を咲かせるのだ。何を話していたかを思い出せない位なので、それはそれはたわいもない会話であったにちがいない(本当はあまりに恥ずかしくて思い出したくないのだ)。

 僕を含めたクールタイプに共通していたのは決まって「中学生らしい中学生」という姿を嫌悪していたということだろう。その当時ですら「中学生らしい中学生」なんてほとんどいなかったのだからそんな枠に反発する姿勢として、いわゆる反体制としての「不良」という流れがあったのだが僕らは見た目にも内面的にもその方向に同調することはなかった。逆に先生から見た僕らはいわゆる「優等生」と見られていたはずである。別に何かに反発するわけではないし、勉強もそれなりにしていた。成績もずば抜けては良かったというわけではないが、決して悪くはなかった。見た目上は「中学生らしい中学生」である。しかしそんな自分自身に対する不満や不安を持っていた者が、中学生特有の強がりと仲間意識を持って集まっていたのかもしれない。

 そんなたわいもない会話として自分なりの音楽論というのが格好の話題となったのである。ちょっと聞きかじった程度の些細な知識を、さも大げさに振りかざしてはその主張とそれに対する反論を楽しむのである。「ロックは死んだのか?」とか「プリンスは天才か?」とか「MTVの存在意義とは?」とか思い出すだけで顔から火が出そうなくらい青臭い話にいつまでも興じていたのである。そんな中、良く話題にあがったのが「マイケル・ジャクソンを支持するか?」というやつである。僕は迷わず支持を訴えたのだが、これに同調する者は誰もいなかった。当時はあれれ?と思ったが、今考えるとその理由は分からないでもない。もちろん「マイケル・ジャクソンは良くない」なんて言うつもりはないし、僕は今でも完全に支持している。要は先に述べたようにかなり尖った連中だったということである。とにかく「マイケルを支持する」ということ自体がもうクールでは無いのだ。

 今でもそうなのだが、マイナーなアーチストを訳もなく珍重する傾向がある。新人バンドのデビューの際によく使われる「インディース出身」というやつがその代表例である。言い換えれば「渋好み」といったところだろうか。アンチメジャーという姿勢自体がある種のステータスになっている傾向がある。作品の内容は二の次で「みんなには分からないが俺には分かる」といった優越感がどうやら気持ち良いらしいのだ。特に音楽にうるさい人、もしくはうるさいと自負している人にこの傾向が強い。逆に考えるとメジャーなものに対して難癖を付けるということがさらに、自分は人とは違うんだという優越感で自分を満足させることになる。そんな中でマイケル・ジャクソンという存在は格好の標的となるわけである。やれヒット狙いだの、ビデオに金をかけてごまかしているだの、整形しているだの、チンパンジーが友達だの、ベジタリアンだの、これでもかと言うくらいにネガティブな発言が耳につく。大概の場合は音楽とは全く関係のない批判である。そして必ずと言っていいほど、そのような人はマイケル・ジャクソンをきちんと聴いていなくて。CDなど一枚も持っていなかったりする。聴いてもいないのにダメ出しをするのだ。

 マイケル・ジャクソンの楽曲を冷静に聴いてみるとその作品のクォリティーには目を見張る物があると思う。6歳でデビューしてからすっとトップスターの座を守っているのだ。これだけでも注目に値するが、決してそのマイケルというビッグ・ネームにすがっている訳ではない。毎回新作が出る度に、僕らの度肝を抜くような仕掛けを用意している。今日のほとんどのポピュラーミュージックが誰かの焼き直しにすぎなくなっている現状を考えると、これはもう奇跡的としか言いようがないし現在のポップス界を背負って立っているといっても過言では無い。ただお金があるというだけではこんなことはできないのがわからないのだろうか。格好いい発言をすること、アンチを唱えるのは簡単だ。体制側にたった者がどれだけ反体制でいなければならないかと言うことを理解しないで何が分かるというのだ。文句があるならばまず、マイケルと同じぐらいのことを成し遂げてみれば良い。かつてそれと同等レベルまで上り詰めたのはエルビスとビートルズぐらいのものだろう。

 すっかりマイケル擁護論になってしまったが(笑)、でもそんな尖った仲間の中で、僕の音楽的嗜好の方向性は形作られていったのだと思う。つまりヒットしていようがいまいがそんなことはどうでも良い。問題はその内容だということである。当たり前のことなのだが、分かっていてもこれを実践するのは難しい。誰しもが多かれ少なかれ先入観を持ってしまうのは仕方がないことなのだから。だから最低でも「自分は先入観を持っているんじゃないか?」と疑う姿勢があればそれだけでも音楽の聴き方は変わってくると思う。もちろん音楽以外のことでも同じ事。自分を信じることも大事だが、疑う姿勢を忘れたらおしまいである。少なくとも僕はこの頃、性格的にも音楽的にも大きく変わった。「中学生らしい中学生」への嫌悪感は「サラリーマンらしいサラリーマン」への嫌悪感へ引き継がれた。今はもう少しずる賢くなっているとはいえ基本的な物の考え方は当時からあんまり変わっていないような気がする。世の中が思っていたほど純粋では無いということに気がつくのはもう少し先の話である。

音楽という魔物

クールを気取った僕たちは自分たちの卒業式を自分なりに演出することにした。式典が終わると生徒は一端教室に戻り、担任の先生や仲間に最後の挨拶をする。そして在校生がつくる人のアーチをくぐって門を出ていくことになっているのだが、ここで僕らはビートルズの「ヘイ・ジュード」を放送したのだ。もちろん先生には内緒で・・・この曲はシングルであるにもかかわらず7分半という長い曲で、それが退場するまでの時間として丁度良かったし、もちろん最後に放送する曲としても十分満足できるものである。卒業生が徐々に退場し始めると僕らは用意していたテープのスイッチを入れた。そして僕らも退場するために外へ出た。そのテープがその後どうなったのかは誰も知らない。

今考えるとちょっと照れくさい思い出である。大人ぶってる子供っていつの世でもちょっと恥ずかしい存在ということなのだろう(特に後の本人に取っては・・・)。10年後には今の僕も恥ずかしい存在なのだろうか