これは恋ではない



大人になりましょう

 僕には何人かのガールフレンドがいる。こう書いてしまうと遊び人風なニュアンスを感じてしまうかもしれないのだが決してそういう意味では無い(笑)。正に文字通り「女性の友達」と言う意味である。(いかした表題は小西康陽氏のコラムから頂戴した)

 男性の場合、余程の特殊な環境、もしくは性格の持ち主でない限り男性の友達の方が多い。自分のアドレス帳を開いてみると分かると思うのだがほとんどの場合、(よほどの好き者で無い限り!)男性の友人が半数以上を占めているのでは無いかと思う。そして大半の人にとって唯一無比の親友(仮にそういう人がいたとしたら)その人は男性なのではないだろうか。男性は男性の友達が多いという、あくまで一般論の話である。

 小さい頃、男の子は男の子同士で遊ぶことが圧倒的に多い。女の子は女の子と遊ぶことが多いだろう。その流れなのかどうかは知らないが結果的にそういう事になっているようである。今でも普段、僕が一緒に遊びに行くのは男友達との場合が間違いなく多い。

同性ということで趣味や嗜好、生活環境などで共通点が多いし、なにしろ「同性」ということ自体が何物にも代え難い共通点である。強いて言うなれば、男友達との関係はある種「無礼講」な関係と言えるだろう。

 そんな中、異性の友人というのは同性の友人と違ってある種独特の距離感、雰囲気を持っているような気がする。もちろん隅から隅まできれいさっぱり何でも話せる異性の友人がいるという人もいるのだろう。しかし僕はいくら親しい友人だとしてもそこには「男と女」の距離感とでもいうべきものがあると感じている。これは決してネガティブな意味ではなくて「心地よい緊張感」とでも表現すればよいだろうか。例えば非常に親しい友人と二人で飲みに行ったとする(僕は飲めないのだが・・・)。同性だったら幾らベロンベロンに酔っぱらっても構わないという無意識がある。しかし異性の場合だと最低ラインのところで歯止めがかかるという無意識がある。気を許すことはできるが決して「無礼講」では無い。つまり異性ということでちょっとだけ格好を付けちゃうってことだろうか?少なくとも全裸になって暴れるようなことは異性と二人っきりで飲みに行ったときには無いと(少なくとも僕に関しては)思うのだが・・・もちろんそうで無い人もいるのだろうし、僕もそういう人を何人か知っている(豪快さんと呼ぼう)。

 前述した何人かのガールフレンドとは皆、そんな「心地よい緊張感」を持ちつつ、かけがえの無い友人として僕の中に存在しているのだ。僕は何ヶ月かに一回位のペースでそんなガールフレンドと二人っきりで遊びに行く。映画を見たり、コンサートに行ったり、おいしい物を食べに行ったりと端から見ていると恋人達のデートのように見えるのかもしれないが、そうでは無いのだ。親しい友達として、プラトニックな関係として一緒に遊びに行くのである。そんな時にはお互いの近況や楽しい昔話、今はまっていることや悩み事、将来のことなどいろいろ話すのだが、一番に多いのはそれぞれの恋愛観についてである。男は男の立場での、女は女の立場での恋愛観を洒落っけたっぷりに、でも少し真面目に語り合うのである。人を好きになるということについて、恋人という存在について、別れについて、そして結婚観についてなど男友達とでは恥ずかしくなって思わず茶化してしまうような、でも本当は真剣に考えていることを「心地よい緊張感」の中でいつまでも語り合うのだ。お互いに相談していると言った方が近いかもしれない。

 僕はこの「心地よい緊張感」の関係が非常に気にっていて、長い人はもう10年以上になる。その古株の彼女は僕にとって最高の恋愛相談員であり、優秀なセラピストであり、誕生日を覚えてくれている人であり、素敵なCDをたくさん紹介してくれる人である。(彼女にとっても僕がそんな存在であれば良いのだが・・・)

これは恋ではない

 僕は基本的に悩みやトラウマは自分の中に押し殺してしまうタイプだと自分で思う。なのでどんなに辛いことや悲しいことがあっても基本的には誰にも話さないのだ。(黙っていても見た目でばれているという話もあるのだが(苦笑))それは、そういう類のことをペラペラ人に話すということ自体が何だか恥ずかしいし、大人として情けないというか格好悪いなあと常々思っているからである。気の置けない男友達はそんな僕の性格を「秘密主義」と茶化すこともある。(笑わば笑え!)しかしながらどうしても自分一人では消化しきれない、誰かに心情を吐露したいというヘビーな気分になることも時にはある。そんな自分の手に負えそうもないような事態になった時にはいつも、その女性に相談している。相談と言っても涙ながらに「聞いておくれよ〜」といった感じではなく、もっと抽象的、一般論的な表現でそれとなく伝えるのだ。彼女は僕の性格(のある特定分野)について一番知っている人であるからそんなあやふやな伝え方でも気持ちを察してくれて、心強い助言(あくまでの一般論的に)を与えてくれる。僕はそうやって何度救われたことか。言葉では語り尽くせない程の感謝の気持ちでいっぱいである。この人がいなければ、一人では生きていくのは難しかっただろうと思う。

 ここではっきりさせておくが、僕と彼女はお互いを心から信頼しているし、ただの友達以上の大事な存在であると思っている。しかしながら(少なくともこの時点では)恋愛対象という訳では無いのである。「少なくとも」とあえて書いたのは、今後そういう関係になる可能性が全くの0%では無いということを言いたいが為である。ではその気があるのかというと、そういう訳では無い。お互いがお互いを異性として意識しつつ、心から信頼している、ただの友達以上の大事な人、しかし恋愛ではないということなのである(おわかりだろうか?)。異性を意識している以上、可能性は0%では無いということにしかすぎなくて、それ以上でも以下でもない。つまりこうして二人で会っているのは「恋愛」が目的では無いということである。

これは恋ではない

 また、そういう事をわざわざ明確にする必要も無いと思う。だって女性に対して「君は恋愛対象ではない!」とはっきり言うのも失礼だと思うし、「少なからず恋愛対象である」っていうのもさらに変だ。だから「彼氏はいるの?」なんて野暮な話はいっさいしなかった。つい最近まで、その女性に彼氏がいることさえ知らなかった位なのだから。

 実際問題として、僕にとっては可能性が何%か?なんてのは、どうでも良くて、恋愛感情なんて意図して起こるわけじゃないし、結局なるようにしかならないのだ。男と女が恋愛の可能性を見るために腹の探り合いをするようなのはもううんざりである。(そんなことで予測できるんならこんな楽な話はないのだ!)そうなったらなった、ならないならならないという「結果論」だけで十分だと思う。

 彼女との関係をうまく言葉で表現できないのが実にもどかしいのだが、あえて言葉にするならばやっぱり「親友」という平凡な表現になってしまうのだろうか。ジャイアン風に言うなれば「心の友」といったところか(笑)。ともかくこの「異性を意識しているが恋愛ではない」「0%ではない」というところが男友達との間にはない「心地よい緊張感」を持ってしまう理由なのだろう。

 こういう関係を男友達に話したことがあるのだが、どうも信じてもらえなかったようだ。何が信じられないのかというとつまり彼曰く「男と女が二人で遊びに行くのに下心が無いわけがない」ということらしいのだ。つまりこれは「男女間には純粋な友情など存在する訳が無い」ってことが言いたいのかなとも思う。まあこれはその人の見解だからとやかく言う必要も無いし、僕には実際にそういうガールフレンドがいるのだから仕方がない。彼には今後も頑張って合コンに勤しんでもらえば良いだけの話である(笑)。

 じゃあ僕が「男女間に純粋な友情は成立するか?」という問いに何と答えるのかというと、これは現時点では何とも言えない。やっぱりここで「存在するのだ!」と明言できないのは、やはり「異性として意識している」という部分があるからなのだろう。「異性として意識している」ということが「不純」に当たるのかは判断が別れるところだろう。だからこういう質問には答えることができる。「異性として意識しつつ、そこに友情(愛情と対の意)は成立するか?」これには「できる!」と即答することができる。

ボーイ・ミーツ・ガール

 「彼氏はいるの?」なんて野暮な話はしないと前述したが、そのことを純粋に知らないから、僕は彼女と何の気兼ねもなく遊びに行くことができるのである。これが最初からそういう人がいると知っていたならば、遊びに誘うことは無かっただろう。それは「恋愛対象として不成立」だからではなく、「彼氏に対して失礼」だと思うからである。これは僕がその人の立場だったら気分が良くないだろうなあという単純な考え方から来ている気持ちだ。人にされたくないことは自分も人にしない、これは当たり前の論理である。

 何故こんな事を書いているかというと、つい最近まるで打ち合わせでもしたかのようにガールフレンドがバタバタと婚約したのだ。彼氏がいたという事実を聞いたときもそうだったが、別に恋愛感情は無いのにこれはひどくショックな出来事であった。自分でも「なんでショックなんだろう?」と疑問に思いつつも、ひどく落ち込んでしまった。少しパラノイアックではある。ここ最近ず〜っと気持ちが沈んでいるのはそのせいである。もちろん婚約が決まったことは僕にとっても嬉しいことである。すぐさま飛んでいって心から祝福したい気持ちでいっぱいである。でも、それとは別の次元で何故だかショックだったのだ。

 この気持ちは何なんだろうとずっと思っていたのだが、別の女友達(既婚者)から鋭い指摘を受けて思わず納得してしまった。つまりその女友達が言うには「僕も彼女もお互いを信頼しているかけがえのない友人なのだが、彼女にはそれ以上にかけがえのない人がいた」ということがショックだったんじゃないのって事なんです。女友達曰く「私も似たような気持ちになったことがある」とのこと。

なるほど

 恋愛対象になっている人が最もかけがえのない人というのは考えてみれば当たり前の話である。当たり前の話には違いないのだが、そこで僕は瞬間的に(そして無意識に)「もっと信頼していた人がいたんだ」っていう事実に少なからずガッカリしたのだろう。「したのだろう」って何だか他人事のように客観的に考えているが、冷静に振り返ってみるとそうだったのだろうなあという事である。僕の大事な人(恋愛感情は無いにせよ)が誰かに取られたっていう気持ちがあるのかもしれない。これは「0%では無い」っていうのと密接に絡んでいる宿命のような気がする。ひょっとしたら僕って自己顕示欲が強いのかも?と思ってしまった。とりあえず、非常に納得した(苦笑)。

 ショックだったには違いないけれど結局のところ彼女たちに「最も信頼する人」がいたとしても僕の今までの気持ちには変わりはないし、これからもずっ〜と「僕の好きな人」であることには間違いないのだから大した事では無いのかもしれない(気軽に食事に誘うって訳にはいかなくなってしまったけれど)。彼女たちには心から幸せになって欲しいと願っているし、そうなってしかるべきだと思う。

ハッピー・サッド

 僕はかなり前から自分で自分を「たぶん結婚しない人」と位置づけている。「たぶん」っていうのは別に「結婚しないぞ!」と心に決めているのではなく、なんとなく自分自身を冷静に考えてみると、どうも結婚しなさそうな感じがするのだ。「そんなこと言ってるやつに限って早く結婚しちゃうんだ」という友人の予測は見事にはずれ今に至っている。

 確かに「最もかけがえのない人」と共に人生を歩んでいくってのは心の充足感、安定感があるのだろうと思う。その「充足感、安定感」には非常に魅力を感じる。でもそれが強烈な結婚願望か、といわれればそうではないような気がする。そうなれば良いなあとは思うが、現状のままでもそれなりに過ごしているので切迫感みたいなものは正直あんまり無いのだ。これが「たぶん結婚しない人」理由の一つ。

 しかしそれよりも大きい理由として、(何故だかはわかならいのだが)どうやら僕は恋愛対象になりにくいタイプのようなのである。これはかなり前から感じていることだし、それはそれで全然構わないのだが(これといってどうすることもできないしねえ(笑))、今や結婚適齢期も後半に差し掛かろうとしている。これからさらに周りがバタバタと結婚していくとなるとそのたびにショックを受けるのか、と考えるとこれはこれで憂鬱な話ではある。なんか寂しくなってきたのでこの辺で終わりにする(^_^;)。

これは恋ではない(と思うんだけど・・・)