BOND18(TND)



ジェームス・ボンドが僕のヒーローだった。

 今にして思えばそんな言い方ができるかもしれない。 確かにジェームス・ボンドが登場する007シリーズは大好きな映画のうちの一つである。 しかし、「将来はボンドのようになるぞ!」といった猛烈な意気込みがあったわけではない。もっと言うとそのような「〜になりたい」といった願望は生まれてこの方持った事が無い。 (小学校の卒業文集には「将来の夢」として「普通のサラリーマンになりたい」と書かれている。 書いた記憶は無いが覚めた子供だったのだろう) でも、改めていろいろと振り返ってみると「そうだったのかなあ」と思い当たる節が 少なくないのである。そしてそれに気付いたときには妙に納得したのものである。

 最近、自分自身のこの性格はどのようにして構築されたのだろうかということを 考える機会が多い。自ら進んで考えるというよりは他人の挙動を見て逆に(反面教師的に) 考えさせられるといった方がより正確な表現であろう。

僕の性格はどのようにして形作られたのか? 例えば、ある決断をしなければならない状況に立たされた場合に、 僕は何らかの理由によって導き出される、より良いと思われる判断を下す。AとBの選択枠があったとした場合に、僕がAを選んだとする。 それは何らかの理由によりBよりAが良い選択だと僕が判断したからだろう。では、なぜ僕はAがより良い選択だと判断したのだろうか?  Aがより良いと思わせる「何らかの理由」、その判断基準はどこから来ているのか・・・

 僕はその基準が僕の性格の中にある何かではないかと思っている。 人によって判断が異なることがあるのは性格が人によって異なるからだ。当たり前と言えば当たり前の事なのだが、例えば「性格が合わない」というのは 「OK/NGの判断基準が異なる」ということに他ならない。異なっているから、さまざまな性格の人が存在し、僕もその中の内の一人であると いうことができる。誰かと基準が一致しているとうれしい気持ちになるし、 異なっていると頭に来たりするのだ。 性格にはその傾向というのがある。ある事柄にOKを出す傾向、NGを出す傾向、 人が日常生活を送る上では意識的でも無意識的でもなんらかの方向性というものが 確実に存在するはずである。 このような傾向というか方向性がなければ判断などできないのだ。 では、僕の性格の方向性はどのようにして決まって来たのかということになる。 僕の決定するOK/NGの基準は何によって僕に埋め込まれたのだろうか?

 もし、僕が誰かの性格の傾向に影響を受けた結果として、 その基準が決まってきたのであるならば、 僕の性格の端々にそれとなくその誰かの性格が表れてきているはずである。 そんなことを思いつつ、僕自身の性格の傾向、方向性をできるだけ客観的に眺めてみた。 まず、自分が「そうありたい」、もしくは「そういう人をカッコいいと思う」というような 性格の特徴を並べてみる。僕の場合は以下の通りになる。

 項目が出揃ったところで、これらの性格を全て(もしくはより多く)持っている と思われる人物を自分の記憶の中から検索する。家族、知人、友人、芸能人など 対象は誰でも良い。とにかく客観的にみてピタリ来る人を捜し出すのだ。 で、(もう、お分かりだとは思うが)僕の場合、それに該当する人物は正に ジェームス・ボンドその人ではないかという結論に達したのである(笑)。

 どんな窮地に立たされてもできるだけ冷静でいようとする気持ちは最近頓に強くなって来ている。 スパイならまだしも、一般人は物理的、肉体的に窮地に立たされることはあまり無い。 ここで言及しているのは主に感情面での窮地、例えばとてつもなく頭に来たり悲しくなるような 出来事があった場合を指している。 冷静でいるのが恰好良いというよりは、ジタバタするのが恰好悪いと感じていると言った方が 正しいかもしれない。

 何かしらの意見の対立があった場合、それぞれの主張における判断の基準にどうして 違いが発生しているのかを明確にする必要がある。 自分の主張があっていると思うのならその理由について論理的に説明すればいいし、 途中で間違っていることに気がついたのなら素直に謝れば良い。 しかしながら感情にまかせて「とにかくNO!」と主張する人のなんと多いことか。 こちらがどれほど説明しても真面目に考えようとはせず、 逆にこちらが意見を求めたときには、全く論理的でないチンプンカンプンな 自己主張を延々と並べ立てる。 このような人たちは「自分を疑ってみる」という能力が欠落しているのだ。 とにかく自分の主張は(神のごとく)絶対的に正しい。 それに意義を唱えるものは(悪魔の如く)敵である。 まるで不可侵の宗教でもあるかのごとくに、その感情に流されている。。 その場凌ぎのくだらない言い訳や、自己正当化の為の強引で訳の分からない説明の羅列。 こちら側が真面目に討論しようと思っていてもこんな状態では話し合いにならない。 頭に来ると言うよりは呆れてしまうという感じで「本当に恰好悪いなあ」と思ってしまう。

 とどのつまりがクールに物事を考えられないというのが僕の一番嫌う所なのだ。 クールという単語が、なんとなく軽さをともなった表現なのでこのニュアンスが 上手く伝わらないかもしれない。 日本語で一番近い言葉としては「大人な」という表現がが妥当であろうか。 大人な対応、大人な考え方、大人な存在。結構それなりの雰囲気を表現できていると思うのだが・・・

 この「大人な***」という考え方はもちろん実際に年を食っていなくても リアリティーを持って実現できる事柄である。逆の面から言うと、実年齢はすっかり大人であるにもかかわらず、 子供染みたことを言う輩が多過ぎるということである。 度胸が無いと言うか、プライドが低いと言うか、馬鹿と言うか・・・ そういう人を見るにつけ本当に「恰好悪いなあ」としみじみと思ってしまう。 個人的には、このような場面に出くわした場合には相手にしないことにしている。 「人は話せば分かる」というのは嘘だと思っているからだ。少なくとも現代では そんな甘い話は通用しない。

 この文章を書いていて気づいたのだが、上記に挙げている僕の「そうありたい」という項目を すべて逆にすると僕が最も嫌悪するタイプの人になる(笑)。

 むむむ、自分で書いていてもこれはちょっと嫌だな。こういう人が一番嫌い(苦笑)。 こんなにたくさんの条件に当てはまる人なんているのかと思ったけれど、 結構思い当たったりするから世の中面白い(!?)。割とどこにでもいるタイプなのかもしれない。 (それって敵が多いって事か?(笑))

品のある恰好良さ

 少し話が逸れてしまったが、そういう意味ではすべての良い所を網羅した 人物としてジェームス・ボンドは完璧ではないだろうか。 どんなピンチになっても慌てず騒がずクールに状況を分析し、その危機を回避していく。 頭の回転が早く知的で博学多才、ユーモアのセンスもあり、派手さは無いがとてつもなく恰好良い。 当然、頭に来ても短絡的に怒鳴ったりしない。 ジェームス・ボンド全体として見るとその存在は現実離れしているけれど、 その性格の部分部分ではそれなりに僕が(方向性としての)影響を受けたと思われる箇所が 幾つも見受けられる。 ジェームス・ボンドになりたかったわけでは無く、ジェームス・ボンドに見習う点を 数多く見いだして来たのであろう。 そんな訳もあってか、このことに気が付くかなり前から僕は007シリーズの 大ファンであった。イギリスの紳士的な雰囲気への憧れの気持ちもここから来ているのかもしれない。 (この映画がイギリス映画であることもかなり後になって知った)

 ファンになった頃、ボンド役はロジャー・ムーアがまだ現役であった。 僕の父親の世代ではジェームス・ボンドといえばショーン・コネリーというのが 定番になっているらしいが、僕を含めた僕と同世代の間では断然ロジャー・ムーアの人気が高い。 もちろんリアルタイムで現役のボンドだったという事が大きいのだろうが、 同世代の友人が皆が口をそろえて言うのはロジャー・ムーアが演じるボンドの 「品のある恰好良さ」についての賛辞である。 ショーン・コネリーはどちらかというと荒々しいというかワイルドというか そういう面が印象に残る。これを現役で見ていた僕の父親の世代は ロジャー・ムーアの品の良さに軟弱さを感じているのかもしれない。 逆に僕等の世代はその品の良さ、知的な存在、クールな性格に惹かれた訳である。 例を挙げるとたぶんこういう事だと思う。ある男が山に登るとする。 A氏は汗だらけ泥だらけになりながら、さまざまな困難に打ち勝って頂上に辿り着く。 B氏はまるで小さな丘でも登るようにすいすいと進んでいき、困難に陥りそうに なっても冷静に対処し何事も無かったかのように頂上に辿り着く。 さて、どっちの方が恰好良いと思うか?  僕の答えはもうおわかりであると思う。

 初めて意識的に007シリーズを見たのは中学校の頃にTV放映された 「ムーンレイカー」であった。 この映画、ボンドがスペースシャトルもどきに乗って宇宙へ行くといった 壮大な(無茶苦茶な?)スケールでかなり現実離れした設定であった。 そのころ購入したビデオに録り、それは繰り返し繰り返し何度も見た。 ビデオが珍しかった事もあってか、何回見てもその面白さには飽きが来なかった。 その後TV放映の順で「ゴールドフィンガー」や「ロシアより愛を込めて」、 レンタルビデオが普及したころにはその全てを次々と見続けて、 そしてのめり込んでいったのである。  男の子ならば毎回登場する秘密兵器は興味の対象だったであろう。 催涙ガスがでるアタッシュケースとか、強力な磁気を発する腕時計、 極めつけはボンド・カーと呼ばれるアストン・マーチン、ロータス・エスプリ。 機関銃、追尾装置、スリップオイルの噴射、あげくの果てには水に潜り ミサイルを発射するという正に秘密兵器。 現在の僕がPDAなどの小さな筐体にたくさんの機能が詰め込まれているといった 「秘密兵器」系のものに惹かれるのは間違いなくこれらの影響だろう。 将来、何かの間違いで大金持ちになったら車はロータスと決めている(笑)。

 初めて映画館に足を運んだのはロジャー・ムーア最後の作品「美しき獲物たち」である。 この頃になるとロジャー・ムーアはボンドを演じる役者としてはぎりぎりの 年齢であった(元々ショーン・コネリーより年上))。 しかしその面白さは期待を裏切ることは無く、 リアルタイムで初めて見る007シリーズということで小躍りしたものだ。 その後ボンド役はショーン・コネリーを思わせるワイルドさを持つティモシー・ダルトンに、 その後現在のピアーズ・ブロスナンとなる。 ピアーズ・ブロスナンはどちらかというとロジャー・ムーアのような「甘いマスク系」の ボンドと言えるが、ショーンコネリーのようなワイルドな面も併せ持つという なかなか興味深い存在である(そして若い!)。 主演第一作目の「ゴールデン・アイ」は007シリーズとしてのブランクはかなり長かったが、 それに見合うだけの見どころ満載、スケールの大きい超娯楽大作となった。 興行成績もなかなかだったようで、無事に新ボンドとしての役目を果たしたのではないかと思う。

BOND18(TND)

 そしてこの春、ピアーズ・ブロスナン主演二作目となる「トゥモロー・ネバー・ダイ」 (カタカナで書くとダサいなあ)が公開となる。業界ではかなり前からTNDという記述で通っていた)。かなり控えめに言っても「楽しみで楽しみで落ちつかない」というところである。前作の悪役は世界中のコンピュータを乗っ取ろうとするコンピュータ時代を意識した 今までにない設定だったが、今回は故意に戦争を勃発させ、それをTV中継して大もうけを企む メディア王というこれまたメディア時代を意識した(マードックがモデル?)設定であるらしい。

 最近の作品は頓に時流を意識した設定が多いのだが、そこんとこ無理しないで欲しいなあ というのが率直な感想である。 「007は二度死ぬ」、「黄金銃を持つ男」、「ムーン・レイカー」、みたいな 現実離れしたはちゃめちゃな設定の方が面白いと思うのだが・・・ 「ゴールデン・アイ」では設定なんて忘れてしまう程に気合の入ったアクションシーン が見どころだったが、今回はどんなふうに見せてくれるのだろうか。期待大である。

 ハリウッドにもヒーローが登場する映画はたくさん制作されてきた。スーパーマンやバットマンがその筆頭にあたるだろう。 これらの映画は確かに面白いし好きなものもある。娯楽映画としては最上級である。 しかしながらこれらのヒーローは「いかにもヒーロー」といった感触を受けるのだ。 分かりやすいコスチュームや単純なストーリーでとにかくヒーローの超人的な存在を 莫大な予算を掛けたSFXやCGで絢爛豪華に大活躍させるのだ。 とてもわかりやすい。 こういう予定調和的な「なんかわからないけどとにかく凄いヒーロー」というのも ジャンルとしては嫌いではない。 しかしながらここに登場するヒーローは純粋な意味で「人間」では無い。 改造人間だったり宇宙人だったりと存在自体がかなり現実離れしているのだ。

 それに対しイギリス制作の007シリーズはもちろん主役は「人間」である。 殺しのライセンスを持つ男とも言えども撃たれれば死ぬかもしれないのである。 その危うさが見ているものにリアリティーのあるハラハラドキドキ感を与えるのである。 人間の存在としてギリギリの限界点を保っている所が親近感を抱かさせるのである。 スーパーマンは体一つで空を飛ぶことができる。 でも僕たちはそれが「嘘」の存在であることを知っている。 スーパーマンは現実的には間違いなく存在しない。 ボンドの場合は設定が「人間」なので、当然そのままでは空を飛ぶことができない。 で、どうするかというとロケットエンジンを搭載した秘密兵器を背中に背負い、 ゆっくりと宙に浮かび上がるのである。 スーパーマンが飛ぶのとは対照的に「頑張れは何とかなりそうなギリギリの線」で ボンドは空を飛ぶのである。この人間臭さがなんともたまらないではないか。 そしてその秘密兵器は後に市販され(!)ロサンゼルスオリンピックの開会式で 実際に使用された。そう、現実の話なのである。

 日本でその存在感と似たニュアンスを持っているヒーローとしては「ルパン三世」が挙げられるであろう。 アニメという性格上、リアリティーという観点からはボンドと比較すると より現実離れした位置にいるのだが、それでも「頑張れは何とかなりそうなギリギリの線」 という特徴は共通しているものがあると思う。 もうちょっと違う表現を用いるならば「物理的には可能かもしれないが・・・」 といったところだろうか。こちらも007シリーズなみに大ファンである。

 何でもそうだがシリーズ物には熱狂的なファン(マニアと呼ばれる)が存在する ことが多いのだが007シリーズも例外ではない。「トゥモロー・ネバー・ダイ」はそのタイトルが決定する以前、もちろん制作発表が 行なわれる以前からファンの間で「Bond18」(18作目の意)の名称で呼ばれ、 Web上に極秘情報から噂話までその話題があちこちに掲載されていた。

 そして今、18作目が完成したばかりであるというのに早くも「Bond19」の 話題が上がっている。さすがにまだ情報量が少ないのだが、その内容は興味深い。 早くも次回作が楽しみである。人間臭いアクション映画の最後の砦として これからもますます僕たちを楽しませて欲しいものである。

次回作をタランティーノが監督するってのは本当なの!?