音楽という魔物(2:平均律)



 クラシックの歴史においてバッハの位置づけは「クラシック音楽創世期の人」という感じで、他の作曲家に比べてそれほど派手な人気がある訳ではありません。僕も「バッハ? バイエルの練習曲みたいじゃないの」という先入観があったので、今まで真面目に聴いた事はありませんでした。音楽の歴史上、重要な作曲家ということは分かっているのですがどうも積極的に聴く気にはなれ無かったのです。最近では音楽をゆっくり聴く時間も限られているのでどうせ聴くのであれば他には無い強い個性の作曲家、ど派手なワーグナー、キャッチーなチャイコフスキー、情緒剥き出しのベートーベン、難解なストラビンスキー、色彩豊かなドビッシーといった人たちを優先して聴く傾向が強かったのです。あとはピアノソロが好きなのでラフマニノフとかフォーレとかバルトークとかそういう類のものを聴いていました。

 それがある日突然に「何かシンプルな曲を聴きたいなあ」という気分になって衝動的にバッハの「平均律クラヴィーア曲集」のCDを買いました。「平均律クラヴィーア」といえばクラシックの基本中の基本。二枚組が2セットの全曲集(かな?)です。この頃は丁度、肉体的にも精神的にも少し疲れていて、どちらかというとシンプルでリラックスできるような音楽を好んで聴いていました。あまりメロディーの起伏が激しくなくて、部屋の中に自然に溶け込むような音楽。(サティー、細野晴臣、ロータ、アンプラグド関連など)そんな訳もあって「シンプルな曲」を聴きたかったのだと思います。なぜこのとき、バッハを選んだのかは全然覚えていません。CDがセットで陳列してある姿がたまたま目に止まっただけなのかも知れません。

 あんまり期待もせずにとりあえず聴いてみる事に。まあ、一応基本中の基本だから聴いといても損はないかなという気持ちでした。一曲目が始まると案の定、バイエルの練習曲のような感じです。特に集中するでもなく、そのままなんとなく聴き続けました。そうすると、二曲目、三曲目と進むにつれて(本を読みながら聴いていたんですが)いつの間にかバッハのシンプルな曲に釘付けになっている自分に気がついたのです。それは何故か?

 これらの楽曲群にはまさに「音を楽しむ」といった気持ちに溢れていたからです。バッハがこの曲を作曲していた時、もう楽しくて楽しくて仕方なかったんだろうなあという様子がありありと見えてくるのです。音楽を心から楽しむという純粋なうれしさが染み出ているとでも言いましょうか。曲事体はそれほど大した技が折り込まれている訳ではありません。でも音楽楽しさ、うれしさをこれでもかというくらいに体現しているように思えてならなかったのです。

 CD4枚にも及ぶシンプルな楽曲の数々。バッハがこれらの曲でやりたかったのはズバリ「転調」です!!音譜が発明される前は、音楽を表す共通言語としてのいわゆる音階(ドレミファ・・)という概念はなかったのです。共通言語が無いので、各地の宗教歌、民謡などがそれぞれ独自の(音階概念で)曲を作っていました。音を何らかの方法で記録する手段(採譜、録音)も無かった訳ですから、このころは音楽といえば「音楽の生演奏」の事だったのです。だからもし良い曲があっったとしても、それを遠くの人に伝えるにはその曲を歌える、演奏できる人を連れていくしか方法が無かったのです。これじゃあんまりだということで音階、音譜というものが誕生したわけです。(誕生の契機は省略(笑))。

 これで一応、譜面さえあれば遠く離れた場所でもほぼ同じ音楽を再現することが可能になりました。ところがそこで発明された音階の規格は「絶対律」と呼ばれるものでその音、音階の規定が非常に厳密なものだったのです。音響学的には完全に調和する形の音階なので「音痴ではない」ということになるのですが逆にこのことが作曲、演奏するのに非常に不便だったのです。

 そこで新たに開発されたのが「平均律」というものなのです。(「平均律クラヴィーア」の「平均律」とはまさにこれです)「絶対律」よりも幾分規定がゆるやかな必要最小限度の規格です。簡単に言うと「ドレミファソラシドの隣り合う音の音程(周波数)の差を絶対的な数値にするのではなく平均化した数値で代替しましょう」ということです。絶対律に比べて数値を「平均化」しているわけですから幾分「音痴」な音階ということになります。しかしこの発明(というか標準化)によって音楽の世界は大きく変わりました。平均律の最大の利点は簡単に「転調ができる」ということです。詳しく言うと「曲の途中で主音を変えることができる」っていうことなんですが・・・まあ詳しい話は楽典でも読んでいただくとして、例えば名曲「赤いスイトピー」で説明すると

「春色の汽車に乗って海に・・・・」〜穏やかな雰囲気
「何故知り合った日から半年過ぎても・・」〜急に不安、悲しげな雰囲気
「I will follow you あなたに」〜晴れやかな雰囲気

 という具合に曲の雰囲気を自由に変えることが出来るということです。今では転調しない曲なんてほとんど無いですから平均律が発明されなかったら音楽は今どうなっていたことでしょう。

 で、バッハなんですが、曲はバイエルの練習曲みたいな非常にシンプルなものなんですが、その曲の端々から「わぁ〜い、転調できるぞ〜!!!」という喜びが溢れているのが感じられるんです。転調が楽しくて楽しくてその、勢いでたくさん曲を作っちゃった(CD4枚分!)という感じです。個人的にはクラシックは色彩や構成、オーケストレーションの技巧などの部分に注目することが多かったのでバッハの「音楽って素晴らしいぃ〜っ!」という曲はちょっとしたカルチャーショックでした。長い事、音楽を聴いてきたので聴き方が普通で無いというか、マニアックになってきたというか素直に楽しまない感覚が身についていたのかもしれません。録音状態とか、音源の貴重度とか、レコード会社とかは音楽を楽しむ際には関係ないものです。(まあ、そういう要素も別の意味で楽しいんですが)音楽は音楽を楽しめばいいんです。根本的にはそれ以上でも以下でもありません。

「音楽はそれを楽しむという事が大前提である」

 僕が音楽の善し悪しを決める一つの基準として、その音楽が「音楽だけでも通用するか」というものがあります。例で言うと、ピアノソロで演奏してもその美しさが変わらなければ OK ということです。

 最近の音楽はビートの力におんぶにだっこで、肝心の音楽自体の力はさっぱりです。ビートは確かに音楽を聴きやすくするという効能があります。また作り手としてもビートを強調することで、それなりの形にしやすくなります。しかし、それらを「音楽のみ」で捉えた場合にどうなるでしょうか? 果たして「音楽の力」はそこにあるんでしょうか? 最近のヒット曲のうちの何曲がピアノソロで演奏してもオリジナルと遜色無い美しさを残していられるでしょうか? やってみると結構おもしろいかもしれません。

 そういう意味で、バッハは「音楽のみ」でその楽しさを伝えてくれたのです。でもよくよく考えると300年以上も前に作られた曲が、今だに人に楽しみを与えてるということがなんだか不思議といえば不思議です。

音楽という魔物