音楽という魔物(1:プレリュード)



プレリュード

 幼稚園にはお遊戯の時間というものがある。童謡のレコードや先生の引くピアノに合わせてみんなで歌い、踊るのだ(「ハトポッポ体操」とか知ってます?)。おそらく来る日も来る日もこんな事をやっていたのであろう、今となってはもうあんまり記憶ないです。もしそうであるらば頻繁に音楽と接する機会があったということである。しかしながらこの頃は音楽と接するというよりも、なんだか楽しいイベントといったニュアンスしか感じていなかったのであろう。その証拠に当時聴いたり歌ったりした歌は全く覚えていない。せいぜいわかるのは「こんな雰囲気の曲だったかなあ」というレベルのものである。(「ハトポッポ体操」もタイトルしか覚えていない。どんな曲だったかは忘れた)幼稚園児が接する楽器と言えばカスタネットやタンバリン、音階が出せるものではハーモニカが良いところだろう。ましてや和音が出るものなどは皆無なのではないだろうか。やはり、ここで「楽しい」と感じていた気持ちは音楽に対してのものでは無かったのだろうと思う。

 僕が音楽に面と向かったと思う最も古い記憶は小学一年生の頃のものだ。今から思えばすべてがそこから始まっているように思えてならない。学校の昼休みの時間、皆がドッヂボールで遊んでいる時に、ポツンと一人で習ったばかりの校歌をで繰返し〜歌っていた記憶がある。なんでそんな事をしていたのかは、もうさっぱり思い出せないし、今思うと「変な子供だったなあ」というひと言でおしまいにしたいような恥ずかしい記憶でもある。でも、おそらくこの時に一人で歌うということ、つまり「自分vs音楽」という図式がなんだか気持ちが良いものだということに(無意識だったかもしれないが)気付いたのかもしれない。どちらにしろ、(理由は分からないにせよ)歌っていたという事自体は鮮明に覚えているし、音楽(「自分vs音楽」)というものに興味を持った最初の瞬間であることは間違いない。

音楽という魔物

 小学校では音楽の授業がある。初歩的な物であるにせよ正式に音楽教育を受けるのだ。この授業ではリコーダー(縦笛)が各自の標準装備となるが、これもやはり単音しか出ない楽器である。しかし幼稚園の頃と大きく異なるのは演奏するパートが分けられるということである。全員が同じ旋律を演奏するのではなく、各パートごとにそれぞれ異なるの旋律を演奏し、それが音楽として一体となるのだ。この違いは音楽的に見ても大きい。グレゴリオ聖歌から平均律クラーヴィアへの進化である(?)。でも今思えば40人位でせいぜい3パート位にしか分かれないのだから、それはそれは重厚なリコーダの合奏だったはずだ(笑)。

 そして決定的にハーモニカと異なるのが「指を使う」ということである。リコーダーの演奏ではこの「指を使う」というハードルが技術的な個人差を生む。ハーモニカでは曖昧だった上手下手がリコーダーでは明確に現れるのだ。で、僕はどうだったかというと最初からクラスの誰よりも上手かったのである、なぜか。この理由は今でもわからない。覚えているのは先生が教えている事はあんまり聞いてなくて、勝手に一人でやってたことぐらいである。別に我が家は父親が指揮者であるとか母親が音大出身だとかいうわけではない。逆に両親とも音楽が得意だったとは思えない節がある(笑)。なのに、なんとなく「勘」で演奏できたのである。

音楽という魔物

 小学生にとってリコーダーが上手く演奏できるということは、足が速いとか、勉強ができるという事と同じぐらいに「クラスのヒーロー」になれるのである。音楽の時間は引っ張りだこだったので結構、得意になっていたのかもしれない。でもここで一番肝心なのは「上手い」という事実よりも、「勝手に一人でやってた」ことと「それがとても楽しかった」ということである。一人で気ままに演奏していること自体がとても楽しかったのである。

 丁度その頃、音符というものにも出会うことになる。こいつのおかげで音楽というものは信じられない程の進化を遂げて来た。現在入手可能な音楽の殆どは、圧倒的に指示されてきたこの法則に従ったものである。形の無い空気の振動である「音」と、その「連続的な連なり」を共通の形式で記号化するという「音符」は、人類史上まれにみる大発明である。話が長くなりそうなので詳しい話はどこかの機会にするが、要は「音楽」が単なる「音」から正式に暖簾(のれん)分けされたということである。「音」から暖簾分けされたものとして他には「言語」なんて物もある。これらは切り離された訳ではなく、その発生から今日に到るまで密接に関係している。音楽の観点から言えばその境界線はどんどん曖昧になってきているようだ(例 : コンクレートミュージック、サンプリング、ラップ、ビート(詩))。曖昧になって来ているということは良い事か悪い事かは人それぞれ解釈が異なるところである。しかしながら音符は音楽にとっての存在理由であるが故の宿命「音楽にとっての最大の足枷、最後の限界点」でもあるということを忘れてはならない。

音楽という魔物

 話が逸れてしまったが、つまりみんな音符を習うのである。音符を習うという事は音楽を記号化することだ、ということは先に述べた。まずいことに記号化すると音楽を机上でやりとりできるから試験ができちゃうんだね(苦笑)。音楽の試験なのに音を出さないってのは何だか変だ(もちろん実技試験というのもあったが・・・)。でも、音楽の成績なんてその人が音楽にどのくらい興味を持っているかというバロメーターに過ぎないんじゃないのかなあと思う。他の科目に比べて覚えなければならないことなんては圧倒的に少ないのである。あとはその人が音楽に対してどういうスタンスを持っているか、ということに尽きると思うのだが。(歴史の試験なんか地獄だったもんなあ、記憶物って嫌い!) 僕で言えば音楽の成績は一番では無かったが、かなり良かった方だ。でもコストパフォーマンス(成績/勉強量)は誰にも負けていなかったはずである。だって音楽の勉強なんて全然しなかったから。

 音楽との概念的な出会いが音符であったとするならば、物理的な出会いはピアノということになる。学校の音楽室には必ずピアノがある。授業が始まるほんの数分前、この楽器は生徒達に解放される。僕にとっては初めての本格的な楽器との出会いである。僕は音楽の授業の前にはいつもピアノを占領していた。男の子でそんなことをしているのはあまりいなかったようなな気がする。なぜピアノを占領してたかという理由も、今となってはもう思い出す術もないが、おそらくこういう事だったんじゃないのかなあということはなんとなく想像できる。それは「自分より図体の大きいものが全身を使って音を発している」ということが子供ながらに何らかのインパクトを感じていたのだろうということである。「生の迫力」って奴ですか(嫌笑)。この頃はオーケストラやバンドなどのいわゆる「生演奏」はまだ体験していないのである。(実際に体験するのはまだまだ先の話)つまり、そのピアノが僕の生活の中での唯一の「生演奏」だったのである。

 「和音が出る」という事も何らかの理由になっていたのではと思えてならない。今でも、楽器の最高峰(アナログ、デジタルを含め)はピアノであると思っている。それはものすごく要約して言うと「一人でオーケストラができる」からである。オーケストラと対等に張り合える楽器ってピアノと「独唱/合唱」ぐらいだと思いませんか? そんな楽器の王様にいきなり出会ったのである。そして数分間ながらも自由に演奏できるのだ。もうあんまり説明する必要も無いような気がする(笑)。

 折しも当時「御稽古ごとブーム」も真っ只中である。誰かが何かを御稽古ごとを始める、あっと言う間にそれが大流行する(おまけにこのころ僕が住んでたのは郊外の団地だからより拍車が掛かった)。いつのまにやら男子も女子もピアノ(もしくはエレクトーン、このころ全盛期)を習うという図式ができていた。 あくまで感覚的な記憶でしかないのだが、子供の3人に1人ぐらいの割合でピアノかエレクトーンどちらかを習っていた、というぐらいの物凄い普及率だったような気がする。少なくとも僕の男友達は殆どがどちらかを習っていたので誰の家に遊びに行っても、ピアノかエレクトーンがあるという状態になっていた。皆習い始めなので執拗に僕にその演奏を聴かせたがる。正直言って聴けた物ではない(と当時も思っていた。クールだねえ)。君もちょっと弾いてみたらなんてことを言われる。エレクトーンなどは訳の分からないスイッチ類がいっぱい付いていて何やら面白そうである。で、何となくいたずらにいろいろと弾いてみたりする。当然、初めてなので勘だけで音を探し探し何となく弾いてみるのだが、これが結構弾けちゃったりする。なんだ簡単じゃん。僕は別段「ふ〜ん、こういうもんなんだ」思ったのだが、友達のお母さんはびっくり仰天である。

音楽という魔物

 まあ、当時僕が知っている曲なんて学校で習ったり、テレビで見たヒット曲だったりでそんなに複雑なものは無かったから、音なんてちょっと探せばすぐ見つかる訳です。 そうやって順番に音を見つけて繋げていくと、なんとなく演奏っぽく聴こえる時もある。それに音楽室のピアノで鍵盤には抵抗を感じなくなっていたから、今思えば全然たいした話では無いのである。でもその一件は近所で結構な噂になってたような気がする(日本は平和だね〜)。この時も少しばかり得意になっていたのかもしれないが、もうこの辺のことはほとんど覚えていない。どちらにしろ子供にとっては誰かに「あら良くできたわね」と言われればそれで万事OKなのだ。それ以上でもそれ以下でも無い。この頃の記憶ではっきり覚えているのが親戚の結婚式で聴いたメンデルスゾーンの結婚行進曲を友達ん家のエレクトーンで何度も何度も繰り返し演奏したという事である。この曲はエレクトーンで演奏すると簡単な割りには結構それっぽく重厚な感じになるのである。特にに出だしのメジャーコードが重なる盛り上がりは気持ちが良かった。子供ながらに「おお、なんかそれっぽいなあ」と盛り上がっていたような気がする。人生で初めてメジャーコードを楽しんだ瞬間かもしれない。(はじめて出会ったクラシックって、やっぱり結婚行進曲なのかなあ。なんかやだ)

 で、ご多分にもれず我が家も「御稽古ごとブーム」に乗っかった訳です。ピアノかエレクトーンを選んだのは僕では無かったような気がする(いつのまにかピアノに決定してた)。しばらくすると我が家にも本物のピアノがやって来きて、週に一回ピアノの先生の所へバイエル(教本)片手に通っていた。しかしこれが思っていた程に楽しいことでは無かったのだ。今思えば教室が遠かったとか、先生がツンツンしていたとか、バイエルの収録曲が至極つまらないものであったとか理由はいろいろ考えられる。でも一番つまらなかったのはなぜか毎週出された書き取りの宿題であった。例えば「来週までにト音記号をノートに何ページ分書いてきなさい」といった感じである。ト音記号ならまだ良い。これが4分音符、8分音符、16分音符、あげくの果てには2部休符、4分休符、符点4分音符となると猛烈につまらない。どのくらいつまらないかは試して頂くとすぐにわかります。10個も書いたら嫌になるはずです。そんな事もあってかあっと言う間に興味は薄れて行き、ピアノの発表会とかがあっても全然練習しなかった。たまにピアノを弾いたとしてもそれは課題曲ではなく、勝手気ままにいろんな曲を断片的に演奏しているといった事が殆どだった。今でもそうだが何かをストイックに繰り返し練習するというのは向いていないようだ。で、その後引っ越しをしたこともあってピアノはなんとなく止めてしまった。バイエルが終わらなかったという事は僕にとっては重大なトラウマである(苦笑)。

音楽という魔物

 小学校低学年のころ、我が家では夜9時に寝るというのがお約束だった。つまり、早く寝てしまうのでそれ以降のテレビ番組、「夜のヒットスタジオ」や「ザ・ベストテン」は見れないのだ。おかげで当時流行していた歌謡曲にさえ疎かったのである。それを思い知らされたこんな経験がある。小学校2年生のときに「お楽しみ会」(仲良し同志がグループを作り、各チームが出し物を演じるというミニ学芸会)があったとき、会の最後に皆で歌を歌おうということになった。誰かが「ガンダーラがいいなあ」と言ったので、そのまま先生も含めて皆で大合唱になった。そう、僕を除いて・・・。今思うとちょっと寂しいような思い出なのだが、そのときは「あれれ、なんで皆知ってんの?」という疑問の方が先行していたような気がする。とにかくその時はびっくりしたのだった。

よくよく考えると、他の子供と比べて極端に音楽に接する機会が少なかったのかもしれない。音楽に非常に興味(というか妙に引っかかるもの)があったにも係わらず、いくらか情報が制限された環境だったと言えるのかもしれない。今の自分と音楽のスタンスにおける、その歪み具合を見るに付けてそんなことを思ってしまう。

 しかし、小学生も高学年になってくるともう少し夜更かしが許されてくるので、やっと音楽番組らしきものをきちんと見られるようになった。丁度クリスマスだか誕生日だかにラジカセを買って貰ったのもその頃で、いつしか「歌番組を録音 -> 繰り返し聴く」というサイクルが生まれた。タイムリーな音楽が手に入るようになり、それを繰り返して聞く事ができるようになったのである。これは僕の中ではちょっとしたパラダイムシフトだったと思う。まあタイムリーな音楽と言っても入手できるのは「ベストテン」とかに登場する人のものに限られていた訳で、そういう意味ではある種偏っていたとも言えなくも無いが(でも、皆そうだったんだから)。

そんなこんなで一風変わった小学校時代は終わりを告げる。そして・・・

以下は文章入力中に間違ってペーストしてしまった部分である。あまりにタイミングが良かったのでこのままとする。

/***********************ここから*****/
// 標準的な初期化処理
// もしこれらの機能を使用せず、実行ファイルのサイズを小さくしたけ
// れば以下の特定の初期化ルーチンの中から不必要なものを削除して
// ください。
/***********************ここまで*****/