ロック老年期



手紙

 以下に公開するのは、僕の友人である池田氏へ宛てた手紙からの抜粋である。彼と僕は大学時代に知り合い、共に音楽活動を行ってきた。担当していたパートが共に鍵盤であったこともあってか音楽の趣味や考え方、その他全般について多くの共通項があると考えている(彼はどう思っているかは知らないが)。彼は早くから作曲活動を行っていた。僕もその影響を受けてか、その真似事みたいなことをしたこともある。最近では忙しさにかまけてとんとご無沙汰であるが、彼はそのペースは落ちたものの今でも活動を続けている。この手紙は、その彼の新作についての感想を綴ったものである。感想であったはずなのだがいつのまにか自分に対する音楽へのアンチテーゼとでもいう内容になってしまった・・・

----------- 以下、手紙からの抜粋 -----------

***** 中略 *****

 各曲についての感想になると、どうしても技術的な話になりそうであるし、今回の池田はそういうものを期待していないだろうから音楽に対する姿勢という観点から感想と自己主張(笑)を述べることとする。

 自分で音楽を作成するに当たってまず重要であると思うのが「自己満足」である。自分の作品に対する満足、自分の作品が他人を満足させたことに対する自己満足、これらを統括して自己満足の世界である。なんで音楽をやるのか、やりたいからやるのである。そうでなかったらきっぱりやめればいい。これで飯を食ってる訳でもなし、無理にやることは無いのである。「やりたいからやる」。これにつきる。ただし作られた音楽が自分以外の人にも満足を与えるのである場合、その人のために作るという別の作成動機があっても構わないと思う。人にささやかな幸せを与えるというのも悪くはない。(何が言いたいかわかりる?)まあそれでも「やりたいからやる」という動機が最優先には違いない。「いやいや作った物にいい物は無い」という伝説を信じたいですね。池田に対して常々思っている事は、音楽的なセンスや技術なんかは常に僕より一歩先に出ているということだ。お世辞でも何でもなく正直そう思っている。音楽に対する姿勢(愛!)も僕は僕なりに接して来たと思うけれども、それでさえもかなわないのかもしれない。脱帽です。

 しかしながら音楽に対する危機意識という点では僕の方が一歩先んじていたのかもしれないと、いう感想をこのテープ(と文章)から受け取った。もう池田は既に感じ取っているかもしれないが、僕の音楽に対する執着心なり推進力なりは以前ほどではない。これについては就職することで音楽と付き合う時間的な制約が厳しくなったり、情報が入手しにくくなったりとかの理由ももちろん大きな要素ではある。が、一番の大きな理由は、音楽を聴いていても、作っていても、以前ほど興味の対象として音楽が存在しないのだ。最初は単純に生活スタイルが学生の頃とは大きく変わったのが原因だと思っていたが、どうやらそうではないらしい。単純にいえば楽しめないのだ。つまんないことを自ら進んでやる元気も時間もない。楽しいと思える日が来るのをじっと待っている(来ればの話だが)状況である。

 就職一年目(だったような気がする)にフリッパーズギターを聴いたのを最後に一枚のCDを繰り返し聴くなんてことはすっかり無くなってしまった。その後買いつづけたCDが皆はずれだったのかもしれないが、あれからもう3年である。冷静に振り替えると音楽に一番熱心だったころ(20〜22歳頃か)に出会っていればそれなりにはまっていたであろうと思われる物も数多く聴いてきた。それにもかかわらずそうはならなかったということはどういうことか。あのビートルズ再結成盤でさえそうなんだからこれは重症である。これから何を聴いても楽しくないのではという恐怖感と失望感からか、音楽と少し距離を置くようになった。なぜこんなことになってしまったか?。

 と言うわけで、またかと思うかもしれないけれど、「ロック老年期説」というものを考えてみた。(笑うな!)僕や池田が普段聴いているもの(いたもの)は大まかな意味で「ロック」だと思う。ポップス系やブルース系、ハウス系なども含めてそういう一括りの物と分類してみる(ジャズやクラシックとは違うものという解釈で結構)。60年代〜90年代を通してそれらを振り替えるとどうしても以下のような筋道を辿ってきたとしか考えられない。

60年代 創世記
70年代 発展期
80年代 繁栄期
90年代 ???

 人間が何かを生み出す過程には必ず最初があり、それの発展があり、そしてピークを迎える。最初というのは生み出された物についてのルールというかそれを定義付ける何かが固まってくる時期だ。人間なら何処の国のどの地方のどういう家に生まれたかが定義される。ロックに関してはこの定義付けが曖昧で「ジャズでない何か、フォークでない何か」という位にしか今となってはあまりに多様化が進んだために判断できない。この曖昧さが今までロックが存在し続けた理由とも考えられる。手を変え品を変えというやつである。

 定義付けが終わるとその定義をもとに様々な試みがなされる。定義の拡大解釈の開始と言ってもいいのかもしれない。赤ん坊は最初は自分の家のベビーベットから見えるものがその世界のすべてである。その後外へ出て、人と会い、自分との比較をはじめる。外部のものを基準として自分を見はじめるのだ。人の良いと思うところは取り入れ、良くないと思うところは御法度として記憶に留める。自分とは異なる物との出会いによって化学反応的なものが発生する。人はなぜ自分を人より良くしようと思うのかははっきりわからない。本能だろうか。良い悪いの判断は個人に委ねられるので十人十色の様々な基準が形成されはじめる。

 化学反応が終わり、基準が固まり始めるとその個人はその基準で動きはじめる。物の善し悪しの判断は自分に蓄積された過去のデータを参照して行われる。自分が自分で動くのだ。この時点に差しかかったらその後、人はどうなるのか。僕の考えではよほどの大変革(蓄積データの喪失、総入れ替え?)が起こらない限りそのまま死ぬまでの道をひたすら歩きつづけるのでは、と思う。成長(化学反応)の停止だ。「人生は一生勉強だ」なんて言われるけど本当にそうだろうか。僕は信じられない。成長が停止したらあとはいつ死んでも同じなんじゃないの、実際問題として。

 で、この話が音楽とどういう関係があるんだとお思いでしょうから、説明しますと。上記で例に出した化学反応の終わりというのが音楽にあてはまるんじゃないか、ということ。「やっぱりそうきたか」と思ってる顔が目に浮かびますが。でも僕が今まで考えてた「音楽死亡論(笑)」とかと大きく違うのは「音楽は生き物じゃないか」ということ。曲単体がどうこうという話じゃなくて、音楽全般というか環境というか地球上にある「音楽」というなにか全体的なもののこと。「音楽文化」とでも言います? こいつは生きてるんじゃないの?、海とか大気みたいに。具体的にいうと、曲を作る時の作者の価値基準っていうのは自分の中に蓄積されたデータを参照するわけだよね。それと比較してより良いものを目指す訳でしょ。人間でも音楽でも良いんだけど、これが発展期なら自分の中の価値基準がまだ固まって無いわけだから「より良く」っていう考え方が発生しやすいと思う、当然。

 で,基準の成長過程のあるポイントで曲が生まれたら、またそれを自分の基準として自分の中に登録していく。早い話が「どんどんうまくなる」ってこと。これは楽しいよ、やっぱり。でも基準が固まってきちゃうと話が変わってくる。固まって最初のころは、自分の基準に合ったものが次々出来てくるからそれなりに楽しめるんだろうけど、同じレベルのもの(技術的なレベルとは違う意味で)が続いてくるとこれはやっぱり飽きてくる、つまらない。前より良くなった、満たされたという気持ちが発生してこない。逆に不満になってくる。これはつらい。この「消化不良」ともいえることが「全体としての音楽」で起こっているんじゃないだろうか。価値基準の固定化、化学反応の終わり。

 こんな考えを思いついたのはビリー・ジョエルとかデビット・ボウイの最近の状況を見てからなんだよね。(サンプル2つだよ、悪かったな!)彼らの全盛期には、彼ら以外のアーティストの活動も活発で、互いにかなりインスパイアされてそれぞれ自分の作品に反映させていったに違いないと思う。自分内の蓄積データがかなり充実している頃だ。ところが最近はどうか。どう考えても(技術的には上回っているにもかかわらず)全盛期に勝る物とは思えない作品ばかりだ。レベルが下がっているのではなくあるポイントから上には行っていないような気がする。彼らを取り巻く「全体としての音楽」が停滞を始めたので、それぞれの参照データにゴミデータがかなりの割合を占めてきているのではないだろうか。互いが互いに影響しあうものが「全体としての音楽」の正体であるならば、反応が終わった二酸化マンガンのように、ロックは本当に終わりである。ジャズや、クラシックが終わったように。まさに「ロック老年期」である。

 ただ完全に悲観している訳ではない。「全体としての音楽」が生き物であるならば、最初にクラシック、ジャズ、ロックという種を蒔いたのは誰だ?。「全体としての音楽」が次の種を蒔くことを期待している(モノリスみたいに)。それがロックの次なる一歩か、全く別の形態を持つ物かという議論はどうでも良い。とっととロックなんか死んじゃえばいいんだ!!。どうする、これから????

この批評のまとめ

  1. 「音楽はやりたいからやるというのが絶対条件、嫌ならやめればいい」
  2. 「僕の新作はしばらくは出ないぞ」という言い訳
  3. 「まああんまりカリカリしないでゆっくりやろうや」という励まし

それでは、お元気で。またくだらない話でもしましょう。

----------- 手紙からの抜粋(ここまで) -----------

補足

 一応、補足しておくとこの文章を書いた頃は自分の中でも自分の嗜好がどのようになってきているのかが判然としなかった。単純にロックに飽きただけなのか、根本的に趣味に合わなくなってきているのか、単なる一時的な気持ちなのかということは自分でもわからなかった。で、今はどうかというと依然としてロックは聴いていない。何かがはっきり分かったわけではないが、とにかくその回数は全盛期として激減している。じゃあ何も聴かなくなったかというとそうではない。今はほとんどクラシックを聴いているのだ。

 音楽的に分析すると、現在のポップシーンの曲は曲としてのインパクト、「音楽の力」があまりにも不甲斐ないと思う。もっと具体的に言うと「メロディーがつまんない」のである。聴いていて心地よい音楽は今でも山ほどある。逆に言うとちまたのヒット曲がなぜヒットしているかというのは非常によくわかる。それは心地よい、すなわち「わかりやすい」からである。わかりやすいということはその曲の構造、技法が単純であるということに他ならない。かなり前から言われていることだが、カラオケで歌いやすい、そして歌うと心地よい音楽というのがそれに当たると思う。声を出して歌うのは確かに気持ち良いことなのかもしれない。しかし、その気持ち良さを目的として曲を作るとどうしても単純なものになってしまう。今のヒット曲のほとんどが「早口でまくしたてる系」か「ろうろうと歌い上げる系」のどちらかであるということがこれを立証しているのではないか。これはこれで一種の「レジャー」として割り切れば結構な話だと思う。

 が、しかしこれはあくまでも「歌うため(そして気持ちよくなるため)」のものであって決して「聴くため」の音楽ではありえない。音楽的な技法(転調、変拍子、対位法、変奏、編曲等)による楽しみはこれらの音楽には無い。それらは音楽をわかりにくくするからだ。もっと言うと「それをどう楽しんで良いかを知らない人には邪魔なものである」からだとも言える。 でも、こういうのってやっぱり

Too Much Monkey Business!

っていうんじゃないの?

そもそも年末と第九は何の関係も無い

 年末になるとベートーベンの「第九」が各地で演奏される。それを聴きに行くほとんどの人が例の大合唱の部分を期待していくのは明らかである。その部分はやはり「わかりやすい」からである。何だか知らないけどみんなで大合唱して盛り上がる、それが楽しいのであろう。確かにあの楽章は「第九」のハイライトである。たいていの人は曲名を知らなくてもあのメロディーは知っているのではと思う。しかしこれは「カラオケ」的な楽しみと同じである。「第九」の第一楽章は交響曲なのに出だしが重々しいチェロの旋律から始まるという、とても興味深い構造をしている。そのほかにもこの交響曲は面白い部分が沢山ある。しかしたいていの人は「合唱はまだかな」と退屈しているのではないだろうか。第一楽章の演奏中に寝てる人さえいる。なんともったいないことであろうか。楽しむ方法さえわかっていれば充分楽しむことができるのに、それを知らないということだけで「退屈」ということになってしまう。

誠に残念なことである。

 クラシックとちまたのヒット曲との絶対的な違いは「音楽として何百年も生き残ってきた」という事実である。もちろんクラシックといっても現在までの長い歴史の中で淘汰された作品が山のようにあるはずである。そんな中で今でも聴かれている作品というのはその淘汰のなかで勝ち残ってきたものといえる。勝ち残るための必須条件は「音楽自身がもつ力」に他ならない。そんなわけで今はクラシックを聴く機会が多いというわけだ。(数もいっぱいあるし)坂本龍一氏がかつて「僕の音楽がヒットチャートを賑わすようになったら、それは僕の音楽レベルが落ちたという事。だから売れちゃいけないんです」という発言をしたことがある。音楽家の苦悩がここに見える。僕にとっては「人当たりは良いが深みがない」ものより「多少取っつきにくいが長く付き合える」ような音楽のほうが性に合っている。

人との付き合いでも同じこと。