『日常とアートの狭間に』 阿佐田亘(a.k.a. 大和川レコード)
最近、自転車に乗り始めた。
家から職場までの片道25分。以前なら電車越しで眺めていた遠い風景、瞬く間に過ぎ去る風景が、自転車に乗ることで、目の前をゆったりと流れる"手に取れる風景"となった。手に取れる風景は、様々な人々の日常をリアルに映し出す。公園で遊ぶ子供たちの日常を目にする度、そこから何らかの人間的"純度"を得ている気がするのであった。
僕はアーティストである。また、アートと関わって仕事をしている。 アートは日常に非日常を持ち込み、人々に"ハレ"を与えると言われている。
日常では味わえない新たな発見を、高揚を、見る者にあたえるものとして。
しかし、一概にアートを非日常的なものと定義することにはいささか疑問がある。アートに関わる者自身にも当然、日々日常があり、その日常を踏まえた上で、作品を作ったり、舞台に立っているのだから。
このように考える僕は、以前から、意図的なレベルで、"日常を作品に還元させる方法"を探ってきた。自分の生活で直接遭遇した環境を録音したり、撮影したりする方法で採取し、それを作品に取り込み、最近では日々の何気ない行為を映像に収め、編集する作業に取りかかっている。
ここでは自分はクリエイターとして何かを新しいものを生み出している自覚は正直ない。
むしろ今そこにある日常を再編集して構成しているという点で、極めてコレクター的であるとすら言える。
蘭の会アンソロジーを読ませて頂いた。
"詩"という表現が持つ独特の日常性に感じ入った。僕は詩人ではないが、同じアーティストとして、読ませて頂いた詩集の中で、日々の感覚を共有している気がした作品があった。
ナツノさんの『台所小宇宙』である。作者のあとがきに書いてある"主婦であり母である生活の中で言葉をさがしています"。自分が発したいメッセージの欠片がそこにはあった。
アートと日常は、常に相対的にお互いの位置をずらし合いながら、漂っているように思える。
そこに厳然たる境界線は存在しない。仮にあるとしてもその線引きは人間が決めるのであって、僕は出来るかぎり、その線引きを曖昧にしたまま、日々生活、日々創作を続けたいと思っている。
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