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■蘭の会2004新春号 竹本寛秋さんからのおてがみ■■■■■■

先日「蘭の会」へのメッセージを書くよう依頼を受けたとき、正直なところ少し当惑した。というのも、インターネットにおける表現形態として「女性」という名辞によって集団を作るということの意味が今ひとつわからなかったからだ。例をとるならば、それはこの文章を実名を使って書くことが望ましいと示唆されたことに対する少なからぬ違和感につながっている。ネット上では、おそらく誰もが多かれ少なかれ複数の署名によって文章を発表し活動している。それを実名(であれ何であれ特定の)の署名を使ってしまった瞬間、その名前が引き連れている様々な背景情報をその周りに引き寄せてしまう。私の場合ならばそれは大学の文学関係の研究者というものであり、それは、文章を書く以前から、「こういう文章が書かれるべき」という内容を規定してしまう。私はそういう立場の人間として文章を寄せるよう求められているわけだ。

「女性」という名辞は、それを使った瞬間、様々な問題を呼び寄せる。一般的に思われているように、「女性」がいるから「女性」という名辞が存在するのでは決してない。事態は全く逆であり、「女性」という名辞が存在する故に「女性」は存在させられるのであり、「女性」という名辞が存在する故に、「女性」とはどのような性質を持つべき物であり、「女性」以外とどのような点で差別化されるものであるかが枠づけられてしまう。

この文章を書く上で、近刊の「蘭の会」の詩集について、芳賀氏、佐々氏に尋ねてみた。すると芳賀氏からは、この会には年の若い人から年配の人まで、様々な背景を持つ人が集まっている、というような意味のことを伺った。佐々氏に伺うと、まだ詩を集めている段階なので、詩集のコンセプトは特にない、というような意味のことを言われた。私はこれを好感を持って受け止めた。その理由は他でもない。「蘭の会」とは、「女性」という〈共通項〉によって集った集団ではなく、「女性」以外では〈共通項のない〉人々の集まりなのだ、と気づいたからだ。たまたま「女性」という符丁によってくくられただけのばらばらな人々の集まり。詩集は、出版社から刊行される以上、何らかのコンセプトを担わされるであろうが、できうるならば、可能な限りその〈ばらばら性〉を大事にしてほしいと思う。そのことが敢えて「女性」という名辞を積極的に受け入れる肯定的な効果を担えるように。

■竹本寛秋さんって、どんなひと?こんなひと?■■■■■■■■■



プロフィール。 1973年札幌生まれ。
現在北海道大学大学院文学研究科博士課程に在学中。
専攻は日本近代文学。明治・大正の詩の歴史について研究中。
昨年6月より『詩学』に
「虚構としての〈詩〉―明治・大正の詩の歴史、その形成の力学」を
一年間の予定で連載中。
http://takemoto.picot.ne.jp/



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著作権は作者に帰属する/最終更新日2004.1.15/サイトデザイン・芳賀梨花子