蘭の会2006年8月号
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■ 河野尊(労働教育ファシリテーター)より

 
イメージを詠むひと



誰もが表現者になりうるのだという真に議論すべき命題はさておき、

いまのところ、私の知りあいで詩人という人は未だ一人しか出会ったことがないので、

その人の語りで印象に残っているものを幾つか記したい。



私が学外研究員を務める、成人教育やライフヒストリーにアプローチする、ある大学の研究会で、その詩人にゲストとして来て頂いた。

テーマは少々長いが、「『社会とアートと人間』その関わりの拓き方 −具体的であること、俯瞰的であること、生きること−」。

メンバーは20人と少人数であったが、九〇分の詩人の語り、一時間余の入念な質疑応答に、最後には詩の朗読をして頂いた。たまたまその日が大震災からちょうど十一年めの日という事が影響しているのかどうかは分からないが、やさしい、平日の穏やかな昼のひとときを温かい気持ちで過ごすことができた。

質疑応答のなかで詩人は、詩の朗読の際に注意する点として、たんに流暢に発話するのではなく、そのテキストの背景にあるイメージを思い浮かべながら詠むのだ、と強調した。そうすると、聴衆もそのテキストの風景を具体的に把握しやすいと。

つづけて、詩人は、事前にテキストは用意するが、<いま、ここ>をリアルに感じとれるよう臨場感も加味するべく、その場の状況にもよるだろうけど、結果、「三分の二がテキスト+残りの三分の一が即興」というスタイルで臨んでいる、とも語った。テキストだけだと強度は高まるが臨場感が薄く、すべて即興だと聴衆との一体感は強まるが即興でテキストが周到に練られていないがゆえに意味の強度は弱まると。だから、「三分の二がテキスト+残りの三分の一が即興」なのだと。インプロ(即興演劇)を試みたり、大学院で人間関係論やコミュニケーション論を学ぶ私としては、我が意を得たり、だ。



また、その詩人には、この世に多くいる、この社会を日々誠実に下支えしている無名の働き手たちを詠んだ作品も多い。たとえば「ことばはたらく はたらくことば」と名付けられた最近の仕事は、おそらく近年の代表作となるだろう。

ある時、「なぜ、そのような、無名の、ふつうの働く人々を詠むのか」と聴いた。尋ねながら、ある映画監督が「制服(仕事着のユニフォーム)を着ていれば、その人は見えない」と語っていたことを思い出す。私の素朴な(しかし根本的であろう)問いに対し、詩人は「いろいろあった二〇代。あるとき、駅で電車が来るのを待っていて、ホームに電車が滑り込んできた。と、ちょうそそのとき、思い立った」と言う。時間(ダイヤ、定刻)がきたから電車が勝手に自分一人で駅に着くのはない。駅員、運転士、車掌、清掃、線路の補修係など、そこで働く無名の人々がいるからこそ、電車やダイヤがスムースに運行される。そのことが、ホームに電車が入ってきて、一瞬にして「わかった」のだ、と。これも、日々の労働そのものをみすえる研究会の事務局を務める私としては、またもや、我が意を得たり、だ。



私の尊敬する、労働問題の研究者は「暗さをたじろがずに凝視する」「ほんとうの希望は、暗い状況をみつめる営みの彼方にしか得られない」ことを自身の信条としている。そして、「すぐれた研究書は、すぐれたドキュメンタリー作品である」とも言う。性も年齢も違うし経験も重なりあわない詩人とその研究者とはおそらく面識はないだろうし、もしかしたら力点の置きどころも違うかもしれない。でも、なんだか、二人の間には共通点があると私には感じられる。

それは、二人とも、この世の、ふつうの人々の営みを見すえ、そんな人々を応援するために使う手法として、「イメージを詠む」ひとだから、だ。


■河野尊さんってどんなひと?


 1970年東京都生まれ。20代は出版社の勤務を経て、現在は、労働教育ファシリテーター(例.ニートの就労支援ワークショップ〜大阪府庁、愛知県庁が主催、ほか)のかたわら、研究会「職場の人権」の事務局を担当。

 また、南山大学大学院・教育ファシリテーション専攻修士課程に在籍。テーマは、労働教育ワークショップ(例.職場におけるパワハラ・セクハラ・いじめ等の問題提起や解決のためのロールプレイ、「人生ゲーム」労働版、など)や、ふつうに働き生きるひとのエンパワメントを促す成人教育的支援の在り方、労働問題における人間関係論的なアプローチ(その場で起きている<いま・ここ>のプロセスに光をあてる)の考察、など。

 研究会「職場の人権」のホームページ

 http://homepage2.nifty.com/jinken



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