トップへ
トップへ
戻る
戻る


子どもを取り巻く環境


1997/09
■子どもを取り巻く環境…子どもの思いのありどころ

 子どもたちの暗いニュースが続く。勢い『ニコラ』の記事も明るいものが少なくなる。子どもたちを取り巻く現実を無視して子どもたちの明るい面ばかりを扱うわけにはいかなくなる。本来、『ニコラ』は子どもたちに幸せを届けるのを目的として発刊したのであったが。

 神戸の淳君殺害事件では、小五と中二のいる我が家にも戦慄が走った。類を見ない残虐な痛ましい事件であった。そしてさらに、容疑者として逮捕されたのが大方の報道に反して14歳の少年であったと分かったときは、さらに衝撃であった。
 我が家にも14歳の長男がおり、その長男を通して今の教育の抱える様々な問題を考えさせられてきた。そして、容疑者の少年が書いたという手紙の「透明な存在」という言葉の意味するところは、今の教育現場の中での子どもたちのあり様を鋭く抉るものであった。事実、テレビや新聞で数多くの子どもたちもそのような気持ちを打ち明けてもいた。

 近年、各地の学校で飼育している動物たちが無惨な殺され方をしている事件がよく報道されていたが、今にして思えば、このような文脈で捉え直されるべき出来事であったのかもしれない。「遂にここまで来たか」−この思いをどこにどう繋げていけば落ち着くのか分からないが、こういう言葉でしか言い表せない事態が子どもたちを取り巻く教育環境に立ち現れてきたことは確かなことだ。

 もはや危害から子どもたちを守ろうという発想だけでは通用しない。もちろん、今回の事件を学校の問題や教育の問題として安易に一般化して論ずることはできないが、また、かの少年の特異なケースとして片付けるわけにもいかないのだ。被害者が小六の子どもなら、加害者もまた中三の子どもである。大人社会が作り出した病弊は、既に子どもたちの心の奥深くまで冒していたのである。

 この事件に関して、我が家の長男は不思議なほど語らない。ただ親が話しているのをじっと聞いているだけである。軽々しく語れないものが彼の中にもあるということであろうか。事件の少年と長男の決定的な違いは、幸か不幸か息子の通っている中学校は、とても進学校と呼べる学校ではないということである。それに輪をかけて、長男は学校の勉強にとらわれていないということである。相変わらずのマイペース。中間・期末テストでも試験勉強をほとんどしない。それでどう評価されるかもまた意に介さない。

 先日、友だちから試験範囲の問い合わせがあった。彼は手帳を見て丁寧に出題範囲を教えてやっていた。しかし、彼自身は少しでも点数を取ろうとして勉強するわけではない。学校の勉強に自分の価値観を合わせなければという発想は、彼の中で皆無なのだ。事実、学校はあり、毎日学校に通いはするが、学校というものに価値を置く発想は彼にはない。生徒としての本籍は学校にあるが、心の現住所は別のところにある。自分が透明な存在であるか否か、それにこだわることは大した意味のあることではないと彼は考えているようである。我が子ながら特異な子どもである。

 そういう彼に釣り仲間からの誘いは絶えない。第二土曜日には友人のお父さんの車で仲間四人と早朝未明午前三時に河口湖まで出かけて行った。仲間には医者志望の子どももいる。その子は将来、医者をしながら焼き芋屋をやりたいという。その発想がユニークである。彼らの間で、釣りの名人は何にも優る尊敬の対象である。特に「王様」と尊称されている名人は神様的な存在となっている。 (A)




トップへ
トップへ
戻る
戻る