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カウンセラーに子どもの心が見えるか


1998/12
■カウンセラーに子どもの心が見えるか…思春期の子どもの理解のために

講師 菅野 泰蔵 さん(東京カウンセリングセンター所長)

◆講演会の開催に当たって
 九月一二日(1998年)埼玉県浦和市の労働会館に菅野泰蔵さんをお招きして、『ニコラの会』主催「カウンセラーに子どもの心が見えるか?〜思春期の子どもの理解のために〜」というカウンセリング講演会を開きました。当日は、親、教師、学生、さわやか相談員、カウンセラーの方など多数の方が参加して下さいました。

 このような講演会を始めるきっかけとなったのは、「ニコラ三周年の集い」に参加されたある読者からの「ぜひ専門のカウンセラーの方のお話を企画して下さい」という要望によるものでした。こういう読者の声によって私たちは動き、動かされています。

 「カウンセラーに子どもの心が見えるか」ーこういうタイトルを付けたのは、菅野さんではなく『ニコラ』です。『ニコラ』という雑誌は、子どもや親の視点から、そして子どものいる現場から教育を考えようという形でやっていますが、そういう視点で見ますと、例えば今、文部省の指導でスクールカウンセラーの導入が進んでいるように、確かに今の社会、カウンセラーあるいはスクールカウンセラーの必要な状況になってきているとは感じるのですが、しかし一方、ある読者からのご相談にもありましたが、子どもが通っている支援塾の先生から「学校もだいぶ変わりましたから、学校の相談員の方にも相談なさったらいかがですか」と勧められてある期待を持って出かけられたそうですが、相談員の方に「何でお子さんは学校に来ないんですか?」と逆に詰問されて、塾の先生とはまるで違った対応にすっかり不信感を抱いてしまったと。そのように親の方には相談員やスクールカウンセラーの方は本当に私たちのことを分かってくれているのかという思いも少なからずあるということです。

 一方また、『ニコラ』の読者の中には相談員の方も学校の先生の方もいらっしゃって、そういう立場の方からは、逆にどういうふうに子どもと接していったらいいのか分からないという声も聞こえてきます。その他、相談員として学校に入っているけれども学校の先生方との仲がうまくいきません、孤立しています、どうしても勉強する場がありません、一年で結果をださなければいけない立場なんですとか、相談員の方自身も苦しい立場に置かれているということもあるようです。

 そういうことも含めて菅野さんにお話していただこうと、「カウンセラーに子どもの心が見えるか?」と、かなり思い切ったタイトルをニコラで設定してお願いしました。また、不登校や中退の子どもの問題ばかりではなくて、いわゆる「普通の子」と言われている子、たとえば女子中学生によるやせ薬事件でも、非常に頭の良い子で、非常に優秀な子であると、そういう子がいろいろ問題を抱えて苦しんでいるということもあります。そこで、それぞれの立場にとらわれることなく、子どもも親も先生も相談員の方も、共に勉強していけたらいいなあと思って企画したものです。そういう意味では、聞き手が搾られていない分、講師の方が話しづらい面もあったのではないかと思います。

 『ニコラ』は今年6月で3周年になりました。その今後も、子ども、親、教師、相談員など、いろんな立場の方たちが定期的に集まって、子どもの心の問題とか、学びの問題とかを話し合える会を開いていけたらいいなあと思っています。以下、要旨をご紹介します。

■講師の菅野泰蔵さん略歴
 心理カウンセラー。1953年生まれ。学習院大学文学部卒(心理学)。学習院大学、代々木の森診療所等のカウンセラーを経て、現在は「東京カウンセリングセンター」所長。他、武蔵野女子大学、二松学舎大学等の講師、スポーツカウンセリング、競馬のコラムニストなど幅広く活躍中。全国のカウンセラーに呼びかけて編集した『こころの日曜日』はシリーズ化され累計100万部のベストセラーになった。豊かな体験や経験に基づいた現場に耐えうるカウンセリング理論の構築を追究している。
 著書に『カウンセリング解体新書』(日本評論社)『こころのスケッチブック』(清水書院)『あしたはあした、今日は今日』(サンマーク出版)など。

■あまり見えない子どもの心

 菅野でございます。皆さん本当にいろいろとお忙しいでしょうけれども、こんなにいっぱい集まっていただきましてありがとうございます。
 最初に「ニコラ」の方からご説明があったと思いますが、今日のタイトル「カウンセラーに子どもの心が見えるか」でありますけれども、とんでもないハッタリで、私のつけたタイトルではありません。私、とてもこんなタイトルはつけられません。つまり、カウンセラーに子どもの心が見えているかというと、あまり見えていないなあということはあるわけです。
 子どもだけでなく大人もそうなんですけれども、もしも本当に子どもの心とか人の心というものが見えるんだったら、私、今ごろカウンセラーなんかやってません。占い師にでもなってですね、巨万の富を築こうかなというふうに思っております。

 私はもともと人の心を覗こうということには全然関心のなかった人間なんですね。カウンセラーになったのもたまたまなったわけでして、むしろあまり人との関わりの中で煩わしい思いはしたくなかった方なんです。
 ただ仕事をしながら何が必要なのかと考えていくうちに、なるべく相手の側に立つということ、とにかくそれだけですね。それが出来るかどうかということが、最も重要なカウンセラーとしての課題です。それはカウンセラーに限らないですね。人間関係にとって一番大事なことというのは、相手の立場ということです。私はこれをロールテイキングと呼んでいます。ロールテイキングというのは、その相手側の思惑といいますか、考えていることとかを自分の中に取り入れる、そういった仕組みのことです。

 我々はそういったことをやっているわけですけれども、特にカウンセラーあるいは今いろいろと難しいお子さんとか、そういった人間関係のことで苦労されている方というのは、そういったことを求められているだろうと思います。
 それから、これは後でお話しますけれども、ある社会的な非常に深刻な問題としてこのロールテイキングというものが出来なくなっている人というのが増えているわけですね。あまり私たちに子どもの心が見えない、それは平たく言えば、私たちは大人だからですね。大人になると子どもの心が見えなくなるわけです。

 これは大人と子どもの関係だけでなく、要するにある一つのまとまりというかシステムというか、外にいるものからはこれが皆一緒に見えるんですね。ところが中にいると、この中には非常にいろいろな違いとか差異というものがあるわけですね。ところがこの違いが外にいると見えない。
 たとえば、私昔大学におりまして、若い学生などが一学年下の連中は自分たちと全然違うと言うんですよ。僕はそれを聞いて、アホだなと思ったんですけれども、僕らから見れば一八も一九も全然変わらないわけですが、彼らはそういうふうに言うんです。今は見方が違います。やはり、その中に入ると、その人たちにしか分からない違いというものがあるんだと。ですから、学校の教師が教室の中で見えないのは当然なんです。そこでいじめがあっても、それは中に入らないと分からない。大人から見ると子どもの世界というのは結構見えないものなんです。

 ただし、私たちはこの中にいる人間の目、視点というものをなるべく持つようにしないといろいろ困ると思うんです。学校の先生は今やそういうことが求められているということでしょうね。
 いじめの問題というのは、よくなんでそんなことが先生に見えないんだと言いますけれども、やっぱり見えないものだと思いますね。見ようとしないということもあるかもしれませんが、やはり側にいる限りは見えないということは必ずあります。

■役割から離れて子どもと仲良くなる

 そういうことで、基本的には、まず子どもの世界、子どもの心というものは、なかなか大人には分かりにくいということがあるわけですが、私なんかは子どもですとか思春期ですとか、付き合いますよね。そうすると私は一〇年間位中学校の不登校の学級の顧問をしておりますが、当初やった頃には、その中学生と簡単に親しくなれるわけですよ。あの位の年代の子を手なずけるのは本当に簡単なんです。手なずけるという言い方にムカッとくる方もいらっしゃるかもしれませんがそうなんですよ。手なずける、ちょっと仲良くする、簡単なんです。それを当時学校の先生は驚異の目で私のことを見ていました。私のことを、「なんで先生は彼らとあんなに仲良くなれるんですか」と。

 簡単なんですよ。私も子どもだからなんですね。見かけは大人なんですけれども、半分位子どもなんです。ところが学校の先生はやはり自分たちは教師だという役割の中にいますから、何か彼らを指導しなきゃいけないとか、そういう役割なんですね。
 でも、私はそういう役割を持っていませんから、彼らの中に入ることができる。完全に出来ているわけではないけれども、少なくとも彼らから見たら何かこのおっさんはちょっと違うぞというふうに思ってくれる。
 でも、それは一〇年位前の話です。もう今は出来ません。私が行くと皆逃げていってしまう。もう年が離れてしまったので、今は徹夜で先生の目を盗んでトランプをやったりする体力がないんですね。ですから、私はちょっと外に出てしまった。

■子どもの心に届くもの

 そういうわけで、今はちょっと年齢的なものがあって苦しいんですけど、以前ある新聞を読んでいましたら、ある女性の作家の方のエッセイみたいなものがありまして、その方は昔中学校の教師だった経験があるんですね。その方が一番初めの新任の時に学校へ行って挨拶をするわけですね。その時にその人は何て言ったかというと、どうせ立派なことは言えそうにないからということなんでしょうか、「自分は皆さんに何か偉そうなことを言えるわけじゃないけれども、自分が中学校だった時のことをいつまでも忘れない、そういう教師になりたい」と挨拶したらしいですね。そうしましたら、全校生徒から期せずして拍手が沸き起こったという話をしておりました。
 自分が中学生だった頃のことを忘れないような教師になりたい、要するにそういう一言が届くというんですかね。やっぱり今、その辺の子どもたちというのはそういう大人を求めている。

 だから、その方のように、そういう挨拶というものは出来そうで、出来ないんですけれども、この間、私の友人のカウンセラーが、今、大学の先生なんですけれども、ある中学校のスクールカウンセラーをしています。その時に、やっぱり最初に赴任した時に挨拶をするんですね。彼は考えたんです。一体どうしたらいいか。全校生徒の居並ぶ所で校長先生がものすごいことを言われるんですよ。「何とか先生は今、何々大学の助教授でいらっしゃいます」と。栃木県ですから、そんな人がスクールカウンセラーに来たんですから大変ですね。
 彼は壇上に上って何て言ったかというと、「ちょっとこれから一言いいます。だっちゅうの」って言っちゃったんですね。そしたら、しーんとしたと言うんですよ。これ、小学生なら受けるかもしれないんですけれども、中学校ですともうみんな軽蔑の眼差しです。私と同じ年のいいおじさんなんですけれどもねえ。

 それは何故かというと、自分の息子に相談したんだそうです。「今度ある学校で挨拶しなくちゃなんないんだけど、何を言ったらいいかなあ」。そこの男の小学校のガキが、「だっちゅうのがいいよ」って言ったと言うんですよ。「そこで約束したから」言ったというんです。でも、すごいですよね、その時しーんとして本当に恥ずかしかったと言ってましたけど。解体できるカウンセラーというのは、そういう凄さを持っているんです。彼はそういうふうにして、一気に自分の偉い部分というか、それを見事に自分で削り取ったんですね。ですから、もうその日のうちに生徒が来る。「だっちゅうの先生」ってね。

 こういうすさまじい人もいるんですけれども、普通カウンセラーはなかなかできません。私は出来ません。私は受けることなら考えますが、絶対に受けないことは言えない。ところが彼は受けなくても受けてもどちらでもいいと。学校の先生も最初まあ驚いて真っ青になったらしいですね。ところが、今は先生方もそうなってきていて、「どうしたらいいんでしょう」そういう先生になってきています。

■子どものままの大人たち

 私は子どもが専門というわけではありませんが、子どもも中には来るわけです。それで一番得意なところはやはり大学で長くおりましたから、大学生あたりなんです。けれど、その大学生あたりを見ますと、小さい時にどんなふうに過ごしたらいいのかみたいなことはおおよそ見当がついてきます。

 私の東京カウンセリングセンターでは今、電話相談というのをやってまして、私も時々代わりに電話相談というのを受けるんですけれども、ある所から電話がかかってきまして、お母さんからの電話です。うちの子どもが会社でいじめられていて今週から会社に行けなくなっていると。そういう相談なんですよ。
 それで、「実は息子は私の隣にいて私が電話をかけているのを聞いている」って言うんですよ。息子さんは自分で電話をかけられなくてお母さんに頼んだらしいんですよ。どうしたらいいのかと。
 私はそれを聞いていて、「あ、勿論今そういう方一杯いるんですよ、ああそうですか。ところで息子さんはいつ入社されたんですか」って言ったんですよ。そしたら、そのお母さん、「私の息子は今年五二歳になります」。これ本当にあった話です。1か月前に。私は思わず絶句しました。あっ、と思いましたね。それでその電話をその息子さん隣に座って聞いているっていうんですよ。でも、私たちこういう仕事をしていますから、そういう方がいるということは一瞬珍しいから驚きますけれども、すごーく分かりますね。つまり、いつまで経ってもそうなってしまう状態なんです。

 私も昔大学にいた時、今から二〇年位前の話なんですけれども、一人で薬が飲めない大学生というのがいました。お父さんかお母さんが、「はい、何々ちゃんあーん」ってやってもらわないと薬が飲めない。大学生です、それ。

 やはりそういうのを見てますと、そういうふうに子どもの頃からずっと変わらないまんまというのはあり得るわけです。つまり、どこかで本人の中で何らかの仕事がなされないと、ずーっとそのまんまということは十分あるわけですね。私たちはそういう事例をいっぱい見てきているわけです。

 ですから、「お母さんが子どものことを一生懸命やるのはいいんですが、大きくなってもそのまんまずーっときたらどうですか」って。すると、「嫌です」って。「じゃあ嫌なら考えましょう」と。「もしあなたがこの子のことを一生面倒見るつもりだったらそのままでも全然構いません」と。

 家族というのはいろんな型がありますから、私はそれでもいいと思うんですよ。さっきの五二歳の人の話も凄いですよね。多分、八〇歳位のお母さんと五二歳の息子さんのその絵を想像しただけでも、ちょっと凄いですよね。でも、そんなあり方があったって私は別に構わない。その人たちがそれで良ければ。でも、大概みんな嫌だって言うんですよ。嫌ならやはり何か考えなくちゃいけないですね。

■カウンセリングの役割・覚悟

 そんなふうにして親御さんとの関わりはやっていく。つまり、そのくらいその時には厳しいものがあるわけですけれども、そのくらいの覚悟をしてもらわなくてはこっちだって相談にはのれませんという感じですね。ところが、多くの人はカウンセラーに何とかしてもらおうと思っているわけですね。

 これはダイエットに非常に似ている。ダイエットをしたい人というのは、何を考えているかというと、楽してやせる方法はないかと、みんな考えているわけですよ。ダイエットは簡単なんですよ。食べなければいい。ところが、みんな楽してやせる方法はないかと考えるわけですから出来ない。苦しんでという覚悟があれば出来るはずなんですけど、みんな楽してって考えてるんですね。

 その辺でちょっとご家族にいろいろ努力してもらうというようなことを考える。つまり、カウンセラーというのは問題を全部引き受けてくれる人じゃないんです。あくまでその家族なりその人なりを自力で解決していく道を手助けする、これがいいカウンセラーなんですね。だから、非常に親切で何でもやってくれるカウンセラーというのはほとんど駄目なカウンセラーなんですね。基本がなってないんですね。

 なぜかというと、たとえその時うまくいっても、その方たちはカウンセラーのお陰で自分は良くなったと思っちゃうわけです。そういうのは最低のカウンセリングです。そうじゃなくて、自分がこうやれたんだというものを持ってもらわなければ話にならないですね。ところが、多くの人はカウンセラーに頼れば何とかしてくれるんじゃないかと。先生もそうかもしれません。そこでちょっと裏切られると非常にカウンセラーに対して不信感を持つという場合があります。ほとんどの場合は、ピンキリの駄目な方のンウンセラーに会って、結局駄目にされています。

 何故かというと、今の子どもの問題は、やるといったらものすごく難しい。スクールカウンセラーをやるなんていったら、カウンセラーの中でも力のある人でなければ出来ないですね。自分が学校に関わって本当によく分かりました。
 子どもだけ手なずけるのは簡単なんです。誰にでも出来る。ところが学校となると、先生との付き合いがあるんですね。後、保護者との付き合いとかですね。非常な能力というものを必要とされます。これは決してカウンセリングの言い訳をしているわけではありません。要するにいろんなことが起こり得るわけですよ。私たちもものすごく覚悟がいるんですね。

 相談に来る以上、その覚悟を共有してほしい。そういうことがあるわけです。そっちにその覚悟があればこっちも真剣にやると。そっちがやる気がないならこっちもやらないと。
 ストーカーなんて相談に来たら、こっちはしびれるくらい怖いんですよ。何か起きたらどうするか。私は弁護士に2回くらいかけましたから。そのくらいしびれる相談です。それは何でかと言ったら、ストーキングされている人がどこかで覚悟してくれないと困るわけです。何かあるかもしれないわけですから。絶対に何かあったっていいというわけではないんですけれども。

 それから私は大学生と長く関わりましたし、精神科で仕事をしたら自殺関係はつきものなんです。「うちの息子は自殺したいって言ってるんですけれども、大丈夫でしょうか」なんて言われたら、「大丈夫です」なんて絶対に言えないわけですよ。本当に死ぬかもしれない。もし死んじゃったら、私は訴えられるかもしれない。そういう厳しい中でやる限り、やはり家族の真剣な姿勢とか、教師でもそうですけれども、そういったものがほしいなあと思うんですね。

 そうしたことを毎回やってましたら、私は潰れてしまいますので、ほとんどの場合はなるべくそんなことのないようにしますけれども、でも、いつもそういったことを考えているということをお分かりいただきたいなあと思います。

■思春期の子どもの問題

 前置きが長くなりましたが、今日は子どもの問題というものを私がどう考えているかということをお話しますと、特に肝心なところというのはやはり思春期ですね。思春期というのは難しい時ですよね。自分が思春期の頃というのは何を考えているかよく分からなかったし、また、その気持ちはやっぱり荒れていましたし、私も大変難しい子どもでした。その難しさを端的に申しますと、生きているということの半分を自分が持ちかけているんですけれども、まだ半分は親に預けている、そういう時なんだと、思春期というのは。

 ある評論家の方も言っていますが、これは本当に肝心なことで、私たちは、みんなそうですけれども、自分の意志でこの世に生まれてきたわけじゃないんですね。ですから、反抗期、いわゆる思春期的な反抗期という時には、自分が生まれなければ良かったと考える。みなさん考えたことはございませんか? 「生まれてこなければ良かった」と。あるいは、この反抗の状態になると、「生んでくれと言った覚えはない」と。みなさん言ったことありません? 私は言ったことがあります。
 そういう過渡期と言いますか、意志の問題ですね。子どもがそういうことを言うのは正しいんですね。つまり、自分の意志で生まれてきたわけじゃない。ただ本当に子どもの生理なんですね。

 こういったことに対して我々が何て言えるか、親は何て言えるかということがあると思います。意志は自分の中に芽生えかけているわけですが、まだ半分親に預けていますから、そういうことを言うわけですね。ですから、どんな子どももこの頃というのは全部自分の責任だと思えないわけですね。「俺のせいじゃない、周りが悪い、親が悪い」と。

■曖昧な子どもと大人の境目

 それがずーっと続くと、五〇、六〇になってもそういう人はいるわけですけれども、この時の思春期的なところをクリア出来なかったわけですね。今、本当に多いです、いくつになっても周りのせいにばかりにしか出来ない人というのは。つまり、思春期というのは、今そうやって半分親に預けている自分から、その意志を全部自分のものにするプロセスといったことが問題となるわけです。つまり、自分の意志で生まれなかった自分の人生だけれども、これを自分自身の人生としてとらえ直すという。 一人前とは、そういうことなんですね。意志を自分のものとする。自分の人生を自分のものとして生きられるようになると。この時期に我々は非常に苦しい体験をしなければならない。

 つまり、親とは他人になるということです。親が他人としての親なんですね。
 世の中は、大人と子どもの境目みたいなものがどんどん曖昧になってきているわけです。昔はそういった時には必ず、イニシェーション、通過儀礼とかありました。何でもいいんですよ。バンジージャンプなんてのもある民族の通過儀礼なんですね。バンジー・ジャンプに挑戦して、その次の日からもう大人なんですね。日本にはそんな厳しいものはありません。アフリカなどではマサイ族ですと昔は大人になるために一人でライオンを一頭倒すとかありましたね。あるいは、ワニが泳いでいる川を泳ぎ渡るとかね。イスラム圏では割礼という儀式があります。日本ではせいぜい戦国時代に元服とかですね。ヘアスタイルが変わるんですね。あるいは、着ている服がちょっと変わる。女の人は今でも多少ありますね。ちょっと年をとると振り袖は着れませんとかね。振り袖を着れるのは大人になるまでとか。これは平安時代からそういう伝統があるわけです。あるいは、昔、私の田舎でしたら、米俵一俵かつげるようになったら大人だとか。

 そういったものがあると思うんですが、今はもうそんなことは全然ないわけです。成人式なんか全く形骸化しただけのもので、あんなものに出たところで何にもならない。だから、今難しいのは、本当に子どもが自分自身で自分を大人にしなきゃという、そういう社会の仕組みがないわけですね。今は他の人も作ってくれないわけです。親もね。先ほどの五二歳で会社に行けない人なんかも、親が作ってくれなかったわけですね。ずーっとそのままで。
 そういうふうに本当に思春期というのは難しい頃なわけですね。

■承認課題が限定されている子どもたち

 何カ月か前に、パソコン通信なんかで恋愛の始まるドラマを見ていて、その時の主人公の竹之内豊を初めて見て、僕はカッコイイなあと思ったんですよ。ある時、その話をしたんです。「竹之内豊ってカッコイイと思わない? たとえば反町とかああいうのはちょっとバカ臭いけど、竹之内だと何か」と。そしたら周りの人たちも、うんそうだそうだと言うんですよ。僕はふと、「ああいうふうにカッコよく生まれたら僕の人生も変わるだろうなあ」と言ったら、ある人が気の毒そうに、「菅野さん、それやめといた方がいいよ、そういう人生は疲れる」って言われたんです。
 あ、バカなことを言ったなあと思ったんですが、私たちはどこかで自分自身の人生を受け入れられない、もっと違ったのがあったとかですね。でもすぐにはっと我にかえるんですがね。そういったことをずっと出来ないまま過ごしてしまうと、そのうち大人になってから大変なことになってしまうんですね。

 最近、困った人たちというのが大変増えていますが、そういう人たちはいつまでたっても自分の人生を受け入れられないんですね。自分の境遇ですとか、運命ですとか、そういったものが受け入れられない。じゃあ、それを受け入れるためには何が必要か、これが肝心なことですね。たとえば、自分で自分をOKだという感覚、自己肯定、それが出来るかどうか。今の自分だけど、これでいいんだという感覚を持てるかどうか。平たく言えば、自信ということに繋がるわけですね。

 でも、我々は自分で自分のことを肯定できるか。これ出来ないですよ。自分で自分を肯定する場合には、他者の承認ということが不可欠なんです。これがないことには我々は自分で自分を誉めることが出来ない。有森さんみたいに「自分で自分を誉めたいと思います」というのはあれくらいになって出来るわけであって、子どものうちとか若いうちとか思春期のうちというのは、そんなこと出来るわけないですね。

 こうやって人から承認されることで我々は自分でこれでいいんだな、OKなんだなということを積み重ねていく。これ、他者がどんな人でもいいというわけではないんですね。一番大事な人、親とか教師とか友人、これはほとんど子どもの発達に沿って重要な順番になってくるんじゃないかなと思うんですが、こういった人たちからいかに肯定されていくかということは非常に大事なことになるわけです。

 要するに、僕らの割と心理学的な考え方から言いまして、三歳くらいまでに本当に親から承認を受けた子どもというのは、もう一生基本的には安定するということが言われます。勿論例外はあるんでしょうけれども。ただこの時にこうやって口で言うのは簡単ですけれども、ここが今の難しい問題になってくるんですね。
 
この時にいろいろな課題もあります。我々が自信を持っていくプロセスというのは何か自分がやった時に、ああ良かったとか誉められたことによって、それがセットになっているわけですね。成功と称賛というのがセットになっている。

 ところが、今一番決定的に難しい問題というのは、承認課題というのが非常に限定されているわけです。子どもにとって唯一大きいのはやはり勉強です。この時、承認課題が社会とか親とかに勉強に限定された時、子どもの受難が始まるというふうに考えていいんじゃないでしょうか。本当に勉強できない子だっているんですから。

 そもそも基本的に人間というのは生まれながら絶対平等じゃありませんね。頭のいい子はいいんだし、出来ない子は出来ないわけですけれども、勉強だけが課題になってしまう。つまり、その子は勉強出来ないと承認されないわけですね。まずここに非常に今の時代の難しいところがある。ある種の競争、かけっこでもスポーツでもなんでもそうですけれども、勝つこと、こういったことに非常にこだわるようになってきたんですね。

■限定された承認課題を突き抜けて

 でも、私たちカウンセリングの立場からすると、じゃあ勉強できる子が自己肯定出来ているかというと、全然そうじゃないですね。これは東大生を見れば一番よく分かります。私は大学のカウンセリングをやっていましたから、いろいろな大学のカウセリングを知ってますけれども、東大生ほど難しいものはない。つまり、偏差値がいい程病んでいるんですね。勉強だけで承認されているわけです。
 つまり、自分は勉強が出来ている限りにおいて承認を受けているということが、だいたいこの子たちには無意識的にも意識されているわけですね。勉強が出来なくなると、いきなり冷たい目にあわされるというふうな恐怖感というものを持たざるを得なくなる。

 ですから、ここで承認といいましたけれども、いろいろな課題の設定をする、課題が広ければいいんですよ。これが限定されてしまうと、子どもにとっては非常につらい。つまり、承認を受けなくなりますから、自己肯定が出来なくなる。ひいては自尊心というものが生まれなくなる。ということになるんじゃないでしょうか。非常に単純な原理なんですけれども。

 ある小学生のお母さんが見えまして、私の前で、子どもが一緒なんですけれども、「この子は勉強もなんか出来ないし…」と言い始めました。「手洗い場で並んでいると、真ん中にいたのにだんだん押し退けられていつも一番最後になっちゃうんですよ。」そんなことを言うんです。

 親御さんとだけ会っていれば、「それはちょっとご心配ですね」みたいなことを言うわけですが、その子が横にいるんですよ。本当にその子がかわいそうになっちゃって、本人の目の前で本人の欠点を言うのもどうかなと思ったんですが、その子に、「でもね、人を押し退けるより押し退けられる方がまだましだよねー」すると、その子、にこっと笑ってくれるんですね。そうやってその子と話していくと、表情が良くなって明るくなってくる。それにつれてお母さんが非常に不機嫌になってくる。「このカウンセラー、この子の問題分かってない」と思ってるんですね。それで、ある限りの欠点を並べ立てる。最後にそのお母さんなんて言ったかというと、「こんなんだから、この子に自信を持ってもらいたいんです」「はー」私は返す言葉がない。今のような例を出すと、本当によく分かりますよね。何でこの子が自信を持てないのかということが。

 でも、今度は、それじゃあカウンセリングの立場からこのお母さんに問題があるのかという見方を我々はしないわけですよ。なんでこのお母さんはこういうふうに思ってしまうのかと。

 これは親子を見ていると良く分かりますが、確かに親をイライラさせたり焦らせたり不安にさせたりする子どもというのはいるんです。私なんかもそういう子どもでしたから。そういうことも考えてあげなければいけないし、お母さんが何でそこまでこの子のことを心配するのか、その背景が必ずある。そこのところにちょっと想像力を及ぼさないといけない。必ずそれまでになるにはそれなりの事情がある。一概にお母さんを非難するというのは大きな間違いなんです。

 問題はこういったいくつかの承認課題みたいなものが我々の社会には用意されているわけで、これをくぐり抜けたところでの承認を受けるというのが、やっぱり子どもにとって一番大事で、たとえば、さっきのお子さんみたいに押し退けられていけないと思うからいけないのであって、押し退けるより押し退けられる方がましだよ、ということですね。競争に勝つなんかよりいいんじゃないかと。

 あるいは、「きっと君は人を押し退けられないんじゃなくて、人を押し退けるのが嫌いなだけだよ。だから君は出来ないんじゃなくてしないんだ」こういうふうに言うと、子どもはやっぱり救われますよね。私なんかはそうやってその子とその人をカウンセリングで承認していくということをするわけです。

 全然押し退けられても何の問題もないんですよ、大概において。我々は今社会の中で、その承認する課題を限定するからいろいろと欠点も見えてきますけども。大体において、どんな人でも誰よりも秀でているところを持っているものですから。そういったものを見つけていくということが肝心のところですね。

 私は駄目な子でしたから、親も気遣っていたんですね。今は隠せるようになったんですけれども、たとえばお使いを頼まれてお店に行って、そこのお店の人がいないと声を出せない、そのお店の人が呼べない、ただずーっと立っているだけでした。すごく気が弱かったですね。
 私が幼稚園時代に運動会があった。私はぼーっとした子どもでしたから、徒競争で競争する意味が分かっていない。それでともかくみんなで走りゃいいんだというふうに考えていたんですね。バーンと鳴ります。そしたらみんなが真面目に走るんですね。慌てて何が起きたのかなあっていう感じで走ってたんです。真面目に競争意識を持って走ればそんなに遅い方じゃなかったんですが、ビリの方から何番目くらいだったんです。それをうちの親が見ていたんですね。きっと私が傷ついていると思ったんでしょうね。うちの親は「競争には負けたなあ。でも走り方はお前が一番だった」と。子ども心にも気遣ってもらって悪いなあという感覚を持ちましたけれども。

 でも、終始、そういった承認の仕方ってあるわけですよね。だから勉強が出来るからその子に自己肯定が根付くかというとそうとも限らない。結局、そういったものをくぐりぬけた何か大事な根本的なところで承認されない限り、なかなか我々の心の安心感といったものは生まれないんじゃないか。

 いわゆる自尊心というのは大事ですよね。公共のところでマナーを守るとか、いろいろありますけれども、そういったものはほとんど自尊心のなせる技ですよ。他人が見ていないところで何をしてもいいんだというのは、自尊心がない証拠ですから。ですから、これはカウンセリングに限らず、ごく当たり前のことなんですけれども、その子のいいところを見ていく。問題とか欠点に執着しないで。

 でも、世の中で一番簡単なことは、問題とか、人の欠点を探すことなんです。そんなことは誰にでも出来る。この子はこんな問題があると見えたら、我々はもう仕事が出来ない。カウンセリングというのは、その子の問題はこうだとかになると、もうそれ以上出来ない。カウンセリングにはもはやならない。指導にはなるかもしれないけれど、カウンセリングにはならない。

■私とイルカどっちが大事?

 我々の世界では、この方に言われると直立不動みたいになっちゃうんですけれども、河合隼雄という大先生がいらっしゃるんですね。先生に一度ね「先生はどんな患者さん、クライエントに会っても、ポジティブに見ている人なんですよね。本当に感心するくらい。でも、たとえば、何回面接しても同じことばかり言う人がいるじゃないですか。そういう時、嫌にならないですか?」って聞いたんです。そしたら河合先生は、何て言ったかというと、「ああ、そういうのはですね、この人は何で毎回同じ話をするんだと感心するのだ」と。あれぐらいの達人になりますと、そういうことが出来るようになるんですね。

 これというのは、ある根本的なところで承認されないでいると、本当に情緒の安定のようなものが失われてしまうんですね。あるいは、何事かの問題が起こった時に、自分の世界、学校でもそうですけれども、そういった問題を自分なりに解決して力にしても何にしても、そういったものが出来ない。つまり、自信みたいなものが育たない。

 ある大人のクライエントの方が「昨日テレビでイルカが入り江に迷い込んで地元の漁師さんが一生懸命帰してあげていた。それを見ていたら悲しくなりました。何か世の中の人は私なんかよりそのイルカの話の方が大事なんだなあというふうに思うんです」そこまでならまだ良かったんですけれども、その後その方が、「先生、先生は私とイルカとどっちが大事ですか」と。

 私、本当に無防備だったですから、一瞬絶句しちゃって。どうしたらいいんだろうって感じでしたね。まさに根本的なところで承認みたいなものを求めている。この方、何回も自殺未遂をしています。自分は生きている価値がない、生きていても仕様がないんだ、生きていく価値がない、と。

 多くの子どもたちというのは勉強が出来ないんです。僕は勉強出来ません。これも出来ない。あれも出来ない。何をやっても駄目なんです。でも、僕、学校にいてもいいんでしょうか。家にいてもいいの。生きていてもいいの。そんなことを言っているんじゃないかなあと、やっぱり思うんですね。

 そんな時に我々は、本人はいろいろな承認課題に応えられなくてすまないと親にも思っているわけですけれども、そんなことは全然構わないということが言えるかどうか。そんなことは鼻から問題にしていないというようなところにいられるかどうか、ということですよね。つまり、承認課題を狭くしているのは大人の世界でしているのであって、我々の人生とかそういったもの自体が非常に矮小化されているというか、そういうようなことがあるような気がします。

 先ほどのように、私とイルカとどっちが大事なんですかと聞かれたら、みなさんでしたらどう答えますか?自分のお子さん、自分のみている生徒がそんなことを問いかけてきたら、何て答えますか? これ、いろんなことがあるので正解はないんですけれども。
 私が一番駄目だと思うのはですね、「あなたの方がイルカより大事だ」という答え方。私、そう答えたんです。なぜ駄目かと言ったら、それは結局「人間の方が動物より大事だ」と言っているに過ぎないんです。

 後でいろいろ考えたら、いろんな答え方があるということが分かりましたね。そういう時に試されているわけですよ、我々が。こういった時にどんな矛盾に対応することが出来るかということが我々に求められているんです。誰でも子どものそういった嘆きとか悲痛な叫びみたいなものにいってしまう話ですと大変なんですけれども、後で、ある時、「それはイルカだよ」と答えればよかったと思ったんです。そんなことを言ったらきっと怒るだろうなあと。でも、「それは勿論イルカの方が大事だよ。何故ならイルカは自分で帰れないから援助をしないといけないんだよ。あなたはきっと自分自身でまた立ち直ることができるから」といった言い方をすると違うでしょう。こんなことが言えたらすごいプロですよね。その時にアドリブでそんなことを考えついたのは、私、二か月くらい後でした。

■地域の中心としての学校

 今、いじめとか不登校だとかが問題になっているわけですが、昔と違って家庭の教育機能というものがかなり失われているわけです。つまり、子どものことを学校に預けるようになったんです。預け過ぎというのがやっぱりあったんだろうなあという気がします。学校にそこまでの期待を持たない方がいいという気がします。僕は学校の先生とも付き合いがあって、先生がよくやっているというのはよく分かるのですが、あまりそのことを期待するのは難しい。じゃあ昔の先生はよくやっていたかというと、そんなことはない。昔の学校の先生は子どものことをよく理解していたかというとそんなことはない。デモシカ教師といって、やる気のない先生は今よりはるかに多かったですね。でも、それでもうまくいっていたというのはあるんですが、それは結局、学校にはある種の権威があったということに過ぎないのですけれども。

 学校にはやっぱりいろいろと問題というか考えるべきところはあると思うんですけども、ある時期から閉ざされた空間になったというのは気になるところです。
 僕らが小さい時に学校に行った時に、生徒と教師だけでなく非常に重要な人物として用務員のおじさんがいたわけです。あるいは、学校で映画会があったり、そこで地域の人たちが映画を見に来たりとか。それに比べたら今は何か閉ざされているような閉鎖的な感じがします。

 でもやっぱり学校はすごいなあと思うんです。特に阪神の震災があった時に、ボランティアのカウンセラーとして行ったんですけれども、その時にほとんどは学校が避難所ですよね。入りますと自分が持っているいつもの日常の学校の雰囲気と全然違うんですよ。何か校庭でお祭りをやっているみたいな感じなんです。炊き出しをやってたりとか、教室に入るとこんなふうに机が全然並んでなくて静かなんです。非常に面白かったです。面白かったというのはどういうことかというと、学校というのはこんなふうに本来地域というものと密接な関係にあるものだと。それを改めて震災の時に思いましたね。

 何かあった時には、その地域の人たちというのは学校を重要なものとして認識するということがあると思うんですね。ならばもう少し普段からああいったように開かれたものが出来なくはないか。つまり、地域の問題、これは今日の心理講座のテーマでもありますし、地域のネットワークの大事な問題ですよね。

 私が思うに、いじめの問題、特に衛星都市といいますか地方都市、東京近郊のところで起きているいじめの問題というのは、本当に地域の問題というか、大人の世界がそのまま子どもの世界にでていると感じます。つまり、これは何例か私は見ましたけれども、新興都市に学校がありますね。こっちに新興住宅があったとしますとこっちに以前からの住民がいたりします。すると、大人の世界では新興の住民と昔からいる住民というのは大体対立している、昔からどこでも。
 何かあの人たちとは考えが違うとか、それが本当に子どもの世界ではそのまま出ていってしまう。子どもは親の会話を聞いて育ってますから、それが見事なまでにいじめられっ子というか力関係があるわけですが、見事なまでの色分けがある時がある。その時にここの学校の立場、あるいは教師がどういう位置にいるか、ものすごく難しい問題がありますよね。

 いじめというのは時折、大人の世界の代理戦争になっているわけですよね。子どもの意識でそういうことはよくあることで、埼玉県なんかでも私は二例知ってます。本当に自分の子どもがいじめられているという話ですけれども、話を聞いてみると、住民間のいがみ合いというんですか、そういうところに巻き込まれているんだろうなというふうに思われることもあります。
 もう少し学校というものを中心に地域でうまくやっていく、そういう学校としての存在になった方がいいんじゃないか。こういう容器の中に子どもを入れて教育するとかではなくて、やはり地域というものが生み出す力、作り出す力になる得るのでないかなあと思います。

 昔、二〇年くらい前に奄美の方の人口二〇人くらいの島に行った時、そこに分校があるわけですが、面白いですよ、小学校一年から中学三年生くらいまで子どもが七人くらいいるんですが、先生が三人くらいいて、ああいうところの学校をみると、地域の原点で何かというと島民は何一〇人なんですけれど、すべての集会が学校に集まるんですよ。そこで盆踊りをやったり、相撲大会をやったりとか、そういう役割を受け入れていくことによって、何か全体状況といったものが変わるんじゃないかなあということを思います。

 今日は、ご家庭の方、教師の方、あるいはカウンセラーの方が見えていらっしゃるというので、多少ちょっいろんな話がしずらかったですけれども、何か質問がありましたら答えられる限りにおいて答えていきますので、私の話はここまでとさせていただきます。どうもありがとうございました。


 会場の参加者との質疑応答から

 スクールカウンセリングの現状について知りたいのですが。しっかり経験の積んだ方が勤めていらっしゃる場所もあれば、ボランティアで地域の方を相談員として置いている所もあるということですが、その割合とか現状はどんな感じなのでしょうか。

 おっしゃる通りで、いいカウンセラーに当たる所とそうでない所とあるみたいです。それで現状というのはですね、そもそもスクールカウンセラーというのは文部省の指導で各公立中学・高校に実験的に置くというのが始まったようですね。これが三年前です。実験モデル校というのは増えているんですが、実のところは文部省がやるスクールカウンセラーというのは臨床心理士という資格を持っているということが共通しているわけです。けれど、全国に臨床心理士というのは五〇〇〇人くらいしかいないんです。みんな仕事を持っていたりするわけです。ですから、東京みたいにいっぱいいる所はいいんですけれども、地方に行きますと派遣出来ない。一〇校くらいの所に五人くらいしか派遣出来ない。
 そういう文部省の意向とは別に、各行政・自治体独自でスクールカウンセラーを置くという所があります。埼玉県なんかが代表ですね。埼玉県では二百何十校かに対してさわやか相談員というのを作ってやっている所ですけれども、私の聞いたところではさわやか相談員の方で臨床心理士の方は一人もいない。おそらく相当苦労されているんじゃないかと思います。あるいは千葉県の市でそういうことをやっている所もあります。そういった行政自体でやっている所に関しては、今のところ日本臨床心理士会からはなかなか派遣出来ないというのが現状ですね。
 つまり、文部省もそれに関して応えるのが精一杯で、こちら側に応えるだけの人数がいないということですね。

 私もカウンセラーをやっていて、先ほどのイルカと私どっちが大事かというお話がありまして、カウンセラーとしてとてもシビアな問題だなあと思っていたんですけれども、教師がカウンセリングを勉強するということについてお聞きしたい。

 いろいろ難しい質問ですが、恐らく教員の方というのは主体性を教育するということと個と集団性ということをバランスよく見ていくというのは難しいことですね。
 つまり、ある一番気になる子に関わっていくと今度は他の子たちが不満を持ったりするとか、それは親たちにもあるんですね。そこで学校と閉鎖性というのは密接に関係しているんですけれども、最近カウンセリングに熱心な先生がいらっしゃいまして、カウンセリングを熱心にやって、それを学校で発揮しようとすると、今度は教員集団の中で浮いてくるわけですね。
 カウンセリング自体勉強することは悪いことではないと思うんですけれども、教師にカウンセラーはなれないと思う。それをうまくやっている人もいるんでしょうけれども、教育であるところから離れるのは難しいことです。カウンセリングにあたって一番大事なことは自分の限界を知ることなんです。自己限定をしておかないといけない。カウンセラー気取りになっちゃうと大変なことが起こります。
 私は二〇年やってますけど、いまだにどうしていいか分からない。ところが、教員研修などをやってますと、誰でもカウンセリング出来るんだと思ってしまう。それをまた教えているカウンセラーもいるんですね。
 現実的な課題としてカウンセリングをやるためには、何が一番必須か。それは精神科で一〇年くらいやることなんです。それをやらないと本当のカウンセリングは出来ない。教員向けのカウンセリングでは誘惑的なことをやっている人はいますけど、そこで学んだことはカウンセリングだなんて夢々思わない。某大学系の人たちはよくそんなことをやってますが、あの人たちは現場なんて全然知らない。はっきり言えば、大学の先生できちんと知っている人なんてほんのわずかです。だけれども、学校の先生から見たら随分専門家に見えちゃうんですね。
 そういった意味でも、カウンセリングの世界というのは歴史が浅いんですね。私くらいの世代になって初めて現場に一〇年とかいろんな分野をやって初めて出てきたところなんですね。昔の人というのは外国から理論を勉強して、これでカウンセリングだと思っているだけの話です。
 もし学ぶとすれば、私のところでやっている研修会かなんかどうですか。安直に教えるというのは非常に危険だということをすごく感じています。ただ勉強するということは悪いということでは全くありません。

 親の立場からなんですけれども、不登校ですと外に出ないということがあるんですね。そうすると、とりわけ母親はカウンセラーの役割をしないといけないような状況にあるんですけれども、どのように専門の先生に結び付けたらいいのか、またどのようにしていったらいいのでしょうか。

 実際、そういう相談が多いんです。子どもが学校に行けないと親御さんはどうしたらよいのかは、それぞれ個々のケースがあるので、あるマニュアルというのはないんです。本当にその家族、家族によって随分違うもので、私はその必殺技というものは持ってないですね。本人さえ来てくれたらなんとかなると思うんですけども、ただよくやっていることは、その子の年齢にもよりますけれども、親御さんとの関係ですね。お子さんが小さければ小さいほど、親御さんが変わればお子さんが変わる。大きくなればいくら頑張ってもうまくいかないということがあります。

 親がカウンセリングを受けるということ

 必要かどうかということは分かりませんけれども、そこでいろいろと話をしている中にもしや何かの突破口が見付かればぐらいで、過大な期待はしてはいけません。駄目もとで相談に行って、いろいろと事情を話してどうしたらいいのか知恵をしぼってもらうといいますか。これは本当にその時の感覚が大事です。そのお子さんの個性とか親御さんとの関係だとか、いろいろな要素があって、そこのところを我々が判断しないことにはどういったことが一番いい策なのかということは言えないですね。

 高校の教員です。カウンセラーになろうとは思っていませんけれども、子どものためには学んでいこうと思っています。私の勤めている高校は埼玉県で初年度にスクールカウンセラーを導入した高校です。臨床心理士の方と話し合いをしながら進めています。
 先ほど承認課題がたくさんあった方がいいとおっしゃいましたけども、私の見る限り、学校というのは勉強と部活動以外の承認課題というのが用意出来ていなくて、もう少し増やしていかなくてはいけないなあと思うんですけれども、先ほどのお話の中で個々を突き抜けた承認というのがありまして、そこのところをもう少し深くお話を伺いたいなあと思います。つまり、何か出来たら誉めるということだけをやっていると、出来ない子もいるわけですから、どういうふうに承認をやっていったらいいのか、そこのところをお伺いしたいのですが。

 要するに、出来る出来ないという問題の立て方自体をとっぱらったということからやっていかなくてはならないんじゃないかと思います。つまり、その子が存在するだけでOKなんだということ、そういうことだと思います。
 たとえば、不登校のお子さんなんかと会って、「どうしてんの?」「いや、学校に行っていない」「全然行ってないの?」「去年からです。6か月…」「そうか君は本当にすごい。なかなかそこまで出来ない。普通の並みの子はね、一か月家に閉じこもっているとね、嫌になってくるんだ。君みたいにそこまで籠城出来る子はね、僕は今まで見たこともない」ってなことを言うわけですよ。どんなことでも肯定できる要素はあるということですね。

 初めてこういう会に出られて感謝しておりますが、親がどうやって子どもと接していったらいいのかということが大きな悩みです。今の子どもたちの友だち関係が昔と違って自分を主張するということが不得手になっているということなので、自分の思いが他人に伝わらないという悩みを抱えています。それは私たちにも多少あるんですけれども、言葉をどうやって伝えていったらいいのか。その辺をお伺いしたいんですけれども。

 今のようなことは私がこのような立場で話すもう一つの論点なんですが、時間がないので話すことが出来ませんでした。私は一〇年くらい面接をしていて、他者感覚という言葉を使ったんですね。
 一番初めにロールテイキングということを話しましたけれども、それが出来ない人がものすごく増えてきたんですね。それまで人間関係でうまくいかないというのは相手のことを配慮する意識が過剰過ぎてうまくいかない、つまり対人意識が強すぎてうまくいかない、対人恐怖症というのがその代表なんですね。他人に自分がどう思われているかが気になりすぎて自分を出せない。
 ところが、一〇数年前からそういうものがどんどん減って、今度はどういう話題をもっていいのか分からない、他の人といると何を話していいのか分からない、そういうのがものすごく増えているんです。
 それはどういうことかと言うと、今まで人とうまくいかない悩みというのは対人意識が非常に過剰だったから生まれてくるものだったのですけれど、今度はそういったものが全く希薄ということで他の人とうまくいかないというのが増えています。たとえば、集団生活が出来ないということですね。今の小学校や中学校を見てみれば分かると思いますが、集団のルールが分からない。
 たとえば、大学生なんかがサークルでどこか合宿へ行ってミーティングをやる。ところが、その彼はミーティングに出ないで風呂に入ってしまう。そういうことをしていると集団からだんだん疎まれてくるんですよ。でも本人は自分が何でみんなから排斥されるのか理解できないんです。みんながミーティングをやっている時に風呂に入ってみんながそのことをどう思うか分からない。全然、びっくりするくらいそうなんですね。一生懸命熱心な人が、あんたはこういうことが出来ないから駄目なのよと教えてくれるんですが、そういう状況になると興奮するだけなんです。もう受け入れられない。興奮して僕には分からないって叫び出すんですね。
 ですから、周りの迷惑を省みず女の子に接近したりして嫌がられているんですけれど、向こうが嫌だと思っていることも取り入れることが出来ないからしつこくしたりするんですね。それで先ほどのロールテイキング、相手の立場に立てるかどうか、その感覚みたいなものが非常に薄れて来つつありますね。
 それを私は非常に重要な問題だと思って、当時そういうことを書いたんですけれども、それから随分経ってからあの頃の心配が当たったなあと思ったのは、オウム真理教の問題でしたね。ちょうどこの他者感覚というのがオウム真理教の世代の、つまり自分のことさえ良ければ他人のことはどうでもいいという発想、他人の痛みが分からない。当時私が見ていた女子学生なんかにしても、ちょっと足の不自由な友だちに何かあると、びっこのくせしてと大学生なのに言ってしまう。そのことで相手がどれだけ傷つくかという思いがない。
 子どもの時に一番大事なのは遊びです。子どもは遊ぶ中で学んでいく。たとえば我々小さい時にトランプの中で一番最初に覚えるのはババ抜きなんですね。そういうものを繰り返しているうちに、子どもは相手がこう出た時にはこういう意図がある、そういったことを学んでいる。それで自分もそれを取り入れます。親もだまされないといけないわけですよ。それがいい関係です。なんでもない遊び、ゲームなんですけれども、相手がこういうことをしたらどういうことなんだ、自分がこうしたら相手はどう出るかということを、ああいった遊びを通して学んでいます。教室でもどこでも相手のことを全然考えられないお子さんがいますが、小さい時にお父さんお母さんとそういった遊びをやった形跡がないですね。
 これはファミコンの問題でも言えることで、決してファミコンが悪いことだと言うつもりはないんですけれども、そういうようなやり取り、ゲーム的なやり取りというものがなくなってしまう。人間関係の基本的なものですね。
 ある友人の引っ越しの手伝いに行ったんですが、その時に他の夫婦も手伝いに来ていたんです。その夫婦が小声でささやき合うのを聞いたんです。何を言っていたかというと、「この家ってものすごくおもちゃ多くない?」
 私、一人っ子で長男ですから分からないんですね、そういうの。各家庭にどのくらいおもちゃがあるか。でも、それを聞いた時にちょっと思ったんですね。おもちゃが多いのはどういうことかと言いますと、子育てみたいなものをいかに怠けているか。
 子どもがいると大変ですよね。だから、楽するために新しいおもちゃを与えて誤魔化している。でも多分、子どもからみたら、お父さんお母さんと遊びたい、おもちゃを通じて。でも、そういうことをしないために、次から次へと与えていくみたいになる。多分、そういうことなんじゃないかなあと思うんですね。
 ある時期から大学生が全然マージャンをやらなくなったんですね。私らの世代というのはマージャンばかりやっていたんですけれども、ある時期からぷつんとやらなくなった。その時に私は単純に、ああ今の若い連中は四人までも友だちがいないんだと。でも、そうじゃないんですね。こういった他者感覚のゲームみたいなものに神話性がない。小さい時からやっていないから。マージャンというのは極めつけの他者感覚のゲームなんですね。三人の思惑を考えなくちゃいけないわけですから。でも、実際の我々の世界というのは、ババ抜きから始まっていろんな複雑な状況までやらなくちゃいけないわけですね。
 野球でも二番バッターはその役割をするだけじゃなくて一番バッター、三番バッターがどういうことをするかという役割まで取り入れるということ、サッカーでもそうですし、何かのゲームでもどんどん複雑になっていくんですね。そういったような基本といったものが、ババ抜きのようなところから始まっていくんですね。
 でも、どうも今の親は出来るだけ子どもの世話にかまけることを良しとしない。何かもっと自分の人生があるとか。あと少子化の問題、兄弟がいないと出来ない。近隣で遊ぶ子どもがいない…。
 「うちの子は学校へ行かないし、ファミコンばっかりやって困るんですよ、子どもからファミコンを取り上げるにはどうしたらいいんでしょう」と質問する人がよくいるんですよ。私はそのたびにどうしたらいいか分からなくて困るんですけれども、最近、結論を見出しました。ファミコンって大人が作ったものですよ。あそこまで流行るにはそれなりの背景があるんだなあと思いますね。
 つまり、親は子どもと出来るだけ向き合いたくない。そのことにぴったり合ったんじゃないかなあというのが最近の私の考え方なんですね。ファミコンが悪いといっても、大人が選んだことなんですね。子どもとなるべく接しないで、楽な家庭生活を送ろうと。そういうニーズがあった訳ですよね。そういったように考えないと、ファミコンの問題は解決がつかないんじゃないかなあと最近は思います。

※編集の都合上、一部割愛し、また表現を変えたところがあります。(文責=馬場章)



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