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映像の世紀の子どもたち


2001/06
■映像の世紀の子どもたち

 現代の子ども達にとっては、テレビやテレビゲーム、アニメーション、映画などの映像を中心とする文化は生活の一部になっている。生まれたときからテレビに親しみ、映像の洪水の中で育つ。その影響の大きさはもはや活字文化の比ではない。今の子ども達の育ちをや学びの問題も映像文化の影響を抜きには考えられなくなってきている。

 今の大人達は活字を通して学んできた。今の若い親の世代も映像文化の洗礼を受けてはいるが、やはりその中心は活字であった。そのせいか、大人の感覚の中では依然として、勉強は活字を媒介として行われるものだという固定観念から抜け出すことが出来ていない。そして、そういうやり方を当然の如く子ども達にも取らせようとする。しかし、今の子ども達は完全に「映像の世紀」の子ども達なのである。その思考や行動様式の中心にあるのは映像であり、映像を通して感じ、考えているのである。

 ここに大人が子ども達に学ばせようと考えているものと子ども達が求めるものとの大きなギャップが生まれる要因の一つがある。しかし、それは困ったこととして否定的に見るのは、やはり大人の側からの見方に過ぎないのかもしれない。もしかしたら、子ども達は大人達が見落としている大きな可能性をそこに見ているのかもしれない。

■映像の持つ可能性

 たとえば、パソコンを使っている方なら気づいていることだが、活字と映像の情報量には格段の差がある。一枚のプッピーディスクには膨大な量の文字データが入るが、映像では小さなものがやっと1つ入る程度である。つまり、物理的に見ても映像はそれだけ情報量が多いということである。

 また、言語での描写は線的、論理的なもので、その他の部分は読者の想像力に依存する部分が大きい。たとえ小さなものであろうと面的立体的な映像を完全に文字で描写し尽くすことは不可能に近い。
 また、言語と映像では感覚器官の働かせ方が大きく異なる。言語にとって視覚は便宜的な一つの手段であるが(聴覚や触覚でもある程度代替できる)、映像は全面的に視覚に依拠している。

 こう考えれば、大人の世代までは、情報や思考の伝達を言語という限られた人間の可能性の中で発揮してきただけだと言うこともできる。むしろ、子ども達の方が大人達が十分に活用することの出来なかった映像による伝達の領域までその可能性を広げたということもできるのではないか。

 大人が活字文化ではなく映像文化に傾倒する子ども達を危惧するのは、映像感覚は豊かになっても思考力がつかないのではないか、特に論理的思考力が身に付かないのではないかということであろう。「漫画やテレビゲームばかりしていないで、(活字の)本を読みなさい」と大人がわざわざ子どもに忠告するのも、主にそれを心配してのことであろう。

 しかし、たとえば、新聞の一つの時事漫画が活字以上に雄弁な情報を思考を提供していることはないか。4コマ漫画が活字ではとても伝えきれない情報を伝えていることもあるのではないか。それに、映像に親しむ子どもたちが必ずしも活字に疎遠であるというわけでもないようだ。ある統計によれば、漫画やゲームに親しむ子ども達の方がそれ以外の子どもたちよりも本をよく読むという結果も出ている。

 むしろ今、子ども達に向き合う大人達に求められているのは、大人達の世代には乏しかった映像の可能性を積極的に評価することではないだろうか。そして、言語文化と映像文化の統合の中に、新たな学びの可能性を見いだすとではないだろうか。そこには、大人世代には得られなかった豊かな可能性が広がっているとも言えるのである。
 その時、私たちは初めて子ども達の学びの問題に真正面から向き合うことができるとも言える。

■メディアリテラシーについて

 最近ようやく、教育の現場でも総合的な学習の時間などを通じ、子どもの学習と映像の問題をメディアリテラシーという形で取り組む試みが始まっている。そして、活字においては新聞を中心とするNIEの授業が行われ、映像においては子どもたちがテレビをどう観、その情報をどう受け取っているのか、テレビとどう付き合っていけばいいのかということなどを、子どもの目や考察を通して考えていこうという授業の試みも始まっている。

 普段、スイッチを入れれば当たり前のように画面に映し出されるテレビの映像。事実の報道ばかりでなく、ドラマやバラエティー番組などのエンターテインメントのものなど様々な映像に接し、子どもも大人も知識として取り入れたり楽しんだりしている。ところが、「テレビとは何か」と問われると、あまり真正面から考えたことがないことに気付かされる。

 テレビに映し出されるものは事実なのか、真実なのか、そのニュースや番組はどのようにして作られたものなのか。企画や取材の段階から放映に至るまでにどういう作業や操作がそこに介在しているのか。この放映は他局のそれとどこが共通しどこが違うのか。その違いはどこから来るのか。何が語られ何が語られていないのか。それはどういう立場から、何を意図して放映されているのか。その映像をただ鵜呑みにしていいのかどうか……。

■静的な学びから動的な学びへ

 「テレビとは何か」「テレビをどう観るか」 ― そういう問いを前にして、子ども達は初めてそれまでただなんとなく観ていたテレビを別の関心をもって見つめ直し始める。そして、自分たちの生活にその情報を活かすにはどうしたらいいか、またテレビを含めたメディアとどうつきあったらいいかといった議論へと発展させていく。そして、21世紀のテレビはこうなってほしいという提案ともなっていく。

 さらに、子ども達は校外に出て、地域の人々にインタビューをしたりテレビ局を訪問して撮影や編集の現場に触れ、そこから学びを発展させていくこともできる。そういう過程を通じて、かつては単にテレビの映像の無批判な受け手に過ぎなかった子どもたちが、テレビの放送の出来上がる過程を理解していくだけでなく、その映像を超えて、より具体的な現実の問題や生活の問題へと学びをと発展させていくこともできる。

 さらにまた、このような学習の方法は今までの「教科書を理解する」「教科書で学ぶ」という受け身で静的な学びの方法を超えて、学びのあり方をもっと動的で具体的なものへと大きく変化させる。紙や活字を通して頭で理解するものから、身体や五感を駆使して学ぶものへと学びの方法を飛躍的に拡大する。また、身体を通して具体的に学ぶあり方は、単なる知識としての学びだけでなく、その副産物として、人との関わり方、話し方、交渉の仕方、一人の社会人としての振る舞い方など、隔離された学びから開かれた学びや小さな社会人としてのあり方の体得なども育成することになる。映像のリテラシーはそういう学びの大きな可能性を秘めている。

 大量の情報が流れる中で子ども達は溺れかけているように見える。そういう意味でも映像のリテラシーは21世紀の子ども達に欠かせない。総合的な学習の時間の有力なテーマともなっている。新たな学びのあり方として、その可能性に期待したい。


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